一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【三】

前回のあらすじ

一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【一】

江戸時代、日本全国には三百を超える藩(はん)があり、そこを治める藩主が存在していましたが、その中にはどういう事か、死んだ後に藩主となった者がいたそうです。彼の名は吉川経幹(きっかわ つねまさ)…

一体どういう事情?死んでから藩主になった幕末の苦労人・吉川経幹の生涯をたどる【二】

前回のあらすじ[insert_post id=115539]時は江戸時代末期、長州藩(主君・毛利家)の柱石として治政に手腕を発揮し、各地を奔走していた岩国領主・吉川経幹(きっかわ つねまさ…

時は幕末、欧米列強を相手に攘夷(馬関戦争)を決行したものの敗れてしまった長州藩は、高杉晋作(たかすぎ しんさく)の屁理屈とハッタリによって戦争責任=賠償金の支払いをすべて幕府に押しつけ、奪われた彦島の無償返還に成功。

しかし、賠償金を支払わされた幕府も黙ってはおらず、禁門の変(元治元1864年7月19日、政治的巻き返しを図った過激派によるクーデター未遂事件)によって「朝敵」とされていた長州藩を征伐するべく、西日本各地の雄藩を動員して着々と準備を進めます。

二度の敗戦でもうボロボロな長州藩は、何としてでも戦争を回避するべく、岩国領主の吉川経幹(きっかわ つねまさ)に交渉を命じるのでした。

「主君を差し出せ」だと?追い詰められた経幹、ついにキレる

さて、経幹は幕府との仲介役を頼もうと薩摩藩の高崎兵部五六(たかさき ひょうぶごろく)と福岡藩の喜多岡勇平(きたおか ゆうへい)に根回しをします。

「我が長州藩は誠に不本意ながら朝敵となってしまったが、元来尊皇の志篤き我ら一同、錦旗に弓ひくつもりなど毛頭なきゆえ、どうかお取り成し願いたく……」

薩摩藩も福岡藩も、本心では戦などしたくないため「長州が謝罪すれば、赦す=戦争を回避するよう幕府に取り成す」旨を申し出ます。

「ありがたい。それでは、その謝罪について……」

交渉した結果、長州藩の謝罪条件は以下の通りとなりました。

一、禁門の変を主導した三家老(国司親相、益田親施、福原元僴)の切腹
一、同じく四参謀(佐久間佐兵衛、宍戸真澂、竹内正兵衛、中村九郎)の斬首
一、「七卿落ち」以来長州で匿っていた五卿(三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修)の追放

長州藩は粛々と三家老と四参謀の処分を執行。しかし11月16日、処刑された七名の首実検が行われた時、幕府の大目付である永井尚志(ながい なおむね)が言い出します。

「これだけでは足りぬ。藩主・毛利敬親(もうり たかちか)・定広(さだひろ)父子を面縛して引き渡し、毛利家の本拠である萩(はぎ)城を明け渡すべし!」

面縛(めんばく)とは後ろ手に縛り上げて顔を晒す=罪人として扱う処遇であり、武士としてはこれ以上ない屈辱的な酷遇と言えます。

ひたすら低姿勢を貫き続けて経幹ですが、これを聞いて遂にキレてしまいました。

3ページ目 危機一髪!西郷隆盛の仲裁で事なきを得る

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