武士の身分を取り戻せ!明治維新の戦場を駆け抜けた甲賀忍者たちの武勇伝【中】

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武士の身分を取り戻せ!明治維新の戦場を駆け抜けた甲賀忍者たちの武勇伝【上】

明治維新と言えば、近代化された新政府軍と、旧態依然とした(というイメージの)幕府軍の激突した戊辰戦争(ぼしんせんそう。慶応四1868年~明治二1869年)が強くイメージされますが、その近代化された新政…

平安時代から永らく甲賀の地(現:滋賀県甲賀市、湖南市)を治め、活躍していながら、戦国末期に領地と武士の身分を失ってしまった甲賀(こうか)流忍者たち。

かつて武士であった誇りを忘れぬよう「甲賀古士(こうかこし)」と称した彼らは、江戸幕府に対して初代将軍・徳川家康への忠義エピソードをでっち上げ、卓越した忍術をアピールして仕官を嘆願するものの、江戸幕府には既に伊賀流忍者を抱えていたため、あえなく失敗。

やがて討幕の機運が高まり、新政府軍と旧幕府軍の本格的な武力衝突「戊辰戦争」が勃発すると、甲賀古士たちは江戸幕府を見限って「新しい世で武士になろう」と一念発起、官軍に味方するため旅立ったのでした。

翻る錦旗の下、越後国を制圧するも……

さて、上洛した甲賀古士たちは仁和寺(現:京都市右京区)に在陣していた仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみや よしあきしんのう)の護衛に取り立てられて「甲賀隊(こうかたい)」と称します。

同じ頃、高野山・金剛峯寺(現:和歌山県伊都郡高野町)に仕えていた郷士によって編成された「高野(こうや)隊」、摂津多田院(現:兵庫県川西市)に仕えていた郷士で編成された「多田(ただ)隊」と合わせて「旗本隊(はたもとたい)」と呼ばれました。

「……天下泰平のため、疾(と)く北越の賊徒を討ち平らぐるべし……」

慶応四1868年6月14日、嘉彰親王は奥羽越列藩同盟を討伐するべく北陸道より進撃する越後口総督に任ぜられ、同年6月22日になっていよいよ京都を出立。

嘉彰親王の腰には賊軍を平らげる節刀が佩(は)かれ、そしてその頭上には違方(まごうかた)なき官軍の証である錦旗が燦然と翻りました。

【越後国を制圧するまでの道のり】
7月7日
敦賀港(現:福井県敦賀市)に到着、帆船富有丸(ふゆうまる)に乗り組んで出航
7月9日
今町港(現:新潟県上越市)から上陸。高田、柏崎、新潟を経て新発田へと進軍
8月11日
村上城を攻略したことで、越後国全域を制圧(残党は出羽に脱出し、庄内藩と共に抵抗)

ここまで旗本隊は嘉彰親王の護衛で前線に出ておらず、甲賀隊が「このまま武勲を立てずば、武士へのお取り立てもままなるまい」と焦っていた9月4日、いよいよ旗本隊に最前線への出撃命令が下ったのでした。

3ページ目 いよいよ最前線へ!庄内藩の猛烈な銃撃を受ける

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