立ち別れ いなばの山の みねにおふる
まつとし聞かば 今帰り来む※『百人一首』第十六番・中納言行平
【意訳】これでお別れ……私はこれから因幡国(いなばのくに。現:鳥取県東部)へと往(い)なば(行かなければ)なりませんが、もしもあなたが山の峰に生えている松(まつ)の木のように、いつまでも私を「待つ(待っていると聞いた)」ならば、今すぐにでもあなたの元へ帰って来ましょう……。
これは在原行平(ありわらの ゆきひら)の和歌ですが、これは愛しい女性との離別を惜しんで詠まれたもので、平安時代の『古今和歌集(延喜五905年)』が初出となっています。
果たして誰に向けて詠んだものかについては諸説ありますが、今回はその内の一説を紹介したいと思います。
零落の貴公子・在原行平プロフィール
有名な兄弟歌人に注目!イケメン色好みな名歌人・在原業平と手腕をふるった政治家・在原行平
在原行平は弘仁九818年、第51代・平城(へいぜい)天皇の皇孫というやんごとなき身分に生まれながら、父・阿保親王(あぼしんのう)が薬子の変(※1)によって皇太子の身分を剥奪されてしまいます。
(※1)弘仁元810年、皇位を譲られた平城太上天皇(上皇)が、愛妾である藤原薬子(ふじわらの くすこ)らにそそのかされて起こした謀叛。征夷大将軍として知られる坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)らに鎮圧される。
その連帯責任として、当時9歳とまだ幼かった行平も皇族の身分を失い、臣下の身分に落とされてしまいました(臣籍降下)。
ちなみに平安時代を代表するイケメンの一人・在原業平(ありわらの なりひら)は彼の弟で、兄弟そろって「零落した貴公子」として世の注目を集め、活躍していました。
そんな行平ですが、あるとき理由は不明ですが第55代・文徳(もんとく)天皇のご機嫌を損ねてしまい、京の都を離れて須磨(現:兵庫県神戸市須磨区)の地で謹慎を余儀なくされてしまいます。
華やかな都を遠く懐かしみながら、寂しい浜辺で波と風だけを友として過ごす退屈な日々……そんな行平の姿を、物陰から見ていた姉妹がおりました。