ひたすら衆生を救う一心で。急峻さで知られる槍ヶ岳を開山した江戸時代の僧・播隆上人とは?

みずめ

いまから160年も昔の江戸時代に、険しさと奥深さで有名な「槍ヶ岳」を開山した、播隆(ばんりゅう)上人を知ってますか?山岳小説の巨匠、新田次郎の小説で知っている方もいるかもしれません。

江戸時代には信仰登山が盛んになり、富士山、御嶽山、高尾山などへの巡礼は引きも切らず行われましたが、現在のようにスポーツや楽しみとして行う習慣はなく、整備されたいくつもの歩きやすいルートがあったわけではありません。

そんな時代に、日本で3000メートルを超える21座のうちの一つ、3180メートルの槍ヶ岳に登攀した播隆上人。現在でもその急峻さで登山愛好家の間では一度は必ず上りたい、憧れの山となっています。

どんな生い立ち?

播隆は天明6年(1786年)、越中河内村(現富山県富山市)に生まれました。19才で出家し京都・大阪で修行します。しかし徳川幕府の檀家制度により、寺はなにもせずとも資金が集まることとなり、堕落の風潮がはびこってしまいます。檀家制度とは各々の信仰に関わらず、住民はその地域の寺に属し、布施をして財政を支えなければならないシステム。

播隆は仏教界に失望して出奔し、その後の人生をほぼ苦行僧として過ごすことになります。彼は岐阜から長野にかけて庶民に対して説法を説きながら行脚し、信者を増やしていきました。同じ教典を何度も繰り返し説き、庶民にもわかりやすいと評判にだったようです。

普段は山里に隠り木の実や草を食べ、念仏三昧の日々を送っていたそうです。

3ページ目 いよいよ槍ヶ岳へ

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