虚無僧がイケてる?江戸時代に実際にあったファッションとしての虚無僧スタイル!鈴木春信の魅力 その5パート3

風信子

前回に引き続き、江戸の浮世絵師・鈴木春信の「風俗四季哥仙」から「風俗四季哥仙 卯月」をご紹介します。

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虚無僧がイケてる?江戸時代に実際にあったファッションとしての虚無僧スタイル!鈴木春信の魅力 その5

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虚無僧がイケてる?江戸時代に実際にあったファッションとしての虚無僧スタイル!鈴木春信の魅力 その5 パート2

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「風俗四季哥仙 卯月」の虚無僧ファッションが、何故江戸庶民に受け入れられたのか、浮世絵と繋がりの深い歌舞伎からそのヒントを探します。

曽我もの

『曾我もの』とは、鎌倉時代の建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った【曾我兄弟の仇討ち事件】を描いた「曽我物語」をもとに書かれた、数々の歌舞伎の演目のことです。

“曾我兄弟の仇討ち”を基とする物語が、能、文楽、歌舞伎などで数多くの演目として作られました。それを総じて「曽我もの」と呼ばれるようになったのです。

 

【曾我兄弟の仇討ち】の原因となる事件のなりゆきは“曽我物語”に綴られています。

平安時代末期、平重盛に仕える武士・工藤祐経は、伊豆国伊東の武将・伊東祐親に所領争いに関わる恨みを抱いていた。安元2年(1176年)10月、祐経は郎党共に、狩りに出た伊藤祐親を暗殺させるべく待ち伏せさせた。しかし刺客の放った矢は、伊藤祐親ではなく一緒にいた嫡男の河津祐泰に当たり、祐泰は死んでしまう。

祐泰の妻とその子・一萬丸(5歳)と箱王丸(3歳)が残された。祐泰の妻は曾我祐信と再婚し、一萬丸と箱王丸は曾我の里(神奈川県小田原市付近)で育つことになる。

後に治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は自害した。祐親の孫である一萬丸と箱王丸(筥王丸)は厳しい生活の中で成長することになる。

一方、工藤祐経は早くに源頼朝に従って御家人となり、頼朝の寵臣となっていた。

兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、“曾我十郎祐成”と名乗った。弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現社に稚児として預けられたが、箱王丸は出家を嫌い箱根を逃れ、縁者にあたる北条時政を頼った(箱王丸の叔母が時政の前妻だった)。そこで元服し“曾我五郎時致”となった。苦難の中で、曾我兄弟は父の仇討ちを決して忘れなかった。

建久4年(1193年)5月、源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩を催した。巻狩には工藤祐経も参加していた。最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入り仇討ちを果たすのであった。父を討たれて十七年の月日が流れていた。

兄祐成は駆けつけた武士たちに討たれ、弟時致は、源頼朝の館に押し入ったところを取り押さえられた。

翌日、時致は源頼朝の面前で仇討ちに至った心底を述べる。頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児に請われて斬首を申し渡す。時致は騒ぐことなく静かに斬られた。

3ページ目 曽我ものが江戸時代に与えた影響

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