前回のあらすじ
近年、戦国時代の武士たちは「馬から下りて戦う」のが当たり前で、「騎馬合戦は絵空事だった」などとする言説が散見されますが、決してそんなことはありません(少なくとも、武士たちはそれをよしとはしていません)。
左手で手綱を操り、右手に槍を奮ってこそ大将のあるべき姿……安房国の戦国武将・正木弥九郎時茂(まさき やくろうときしげ)は幼少の頃からそう主張して鍛錬を重ね、数々の武勲を上げて「槍大膳(やりだいぜん)」の異名をとったのでした。
前回の記事
「戦国時代の騎馬合戦は絵空事」説に異議!武士らしく馬上で武勲を立て「槍大膳」と称された武将【上】
「槍大膳」の嫡男・正木信茂の武勇伝
……さて、そんな弥九郎の気風はその嫡男である正木大太郎信茂(だいたろうのぶしげ。天文九1540年生まれ)にも受け継がれ、永禄四1561年に父が亡くなると、若くして家督と「大膳亮」の官途を継承。数々の戦に武功を立て、父に劣らぬ「槍大膳」ぶりを発揮しました。
そんな「槍大膳」の最期は永禄七1564年1月、後世に言う「国府台合戦(第二次)」。房総半島に侵攻してきた関東の雄・北条氏康(ほうじょう うじやす)の軍勢と激突します。
ここでも大太郎は馬上で槍を奮い、緒戦で先鋒の大将・遠山丹波(とおやま たんば)と富永三郎左衛門尉(とみなが さぶろうざゑもんのじょう)をはじめ、北条方の猛将たち(高木治部 山角越前 中条出羽 太田四郎左衛門 池沼三河 浜名近江)を刃の錆と討ち取る大殊勲。名もなき者を含めると、20から50ばかりも首級を上げたと言われています。
この戦闘で北条方の損害は700、対する里見方は300ほどと言われ、緒戦は里見方の優勢に終わりました。
しかし、これに気を良くした里見軍は油断して「これだけ痛めつければ、今日のところはもう攻めては来るまい」と、飲めや歌えやどんちゃん騒ぎ。日中の疲れもあって、ほとんどの者が泥のように眠りこけてしまいます。
そして案の定、反撃のチャンスを虎視眈々と狙っていた北条方が夜襲をしかけ、里見の陣中は大混乱に陥りました。