寝ぼけてうっかり!?江戸時代、予想外すぎる方法で切腹してしまった武士がいた

拾丸

自らの命を差し出すことで一族の名誉や城兵たちを守る手段として用いられた切腹は江戸時代になると処刑方法として用いられることになりました。また、寛文3年(1663)に禁止されるまで殉死の方法としても切腹が用いられています。

殉死や不祥事を起こさない限り、切腹する必要のない時代となった江戸時代に不祥事をしていないのに切腹をした大名がいました。

その人物は松平忠章(まつだいら-ただあき)。今回は忠章がなぜ切腹をしたのか紹介したいと思います。

対照的な親子

忠章は松平家の一門、久松松平家出身で文武両道に秀でていました。しかし、父の松平忠充(まつだいら-ただみつ)は忠章と対照的に暗愚な人物で周囲を恐怖のどん底に叩き落していました。

その片鱗を見せるようになったのは忠充が伊勢国長島藩の2代目藩主になり2年経った貞享4年(1887)の時に、些細な理由から家臣を3人追放したことから端を発します。

そのような父を持った忠章は次第に忠充に不満を抱き始め、しまいには2人の関係性に溝ができてしまいました。

そんな関係のまま迎えた元禄元年(1688)にある事件が起きます…。

3ページ目 次第にストレスが溜まっていき…

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了