戦国乱世を駆け抜けた風雲児として、強烈な個性を輝かせた織田信長(おだ のぶなが)。
若き日の「大うつけ」ぶりから「天下布武」の壮大なスケールまで、他の大名たちとは一線を画した信長ですが、その特徴の一つに「戦略状況に応じて拠点を引っ越した」ことが挙げられます。
多くの大名たちは、武田信玄(たけだ しんげん)なら甲斐の躑躅ヶ崎(現:山梨県甲府市)、上杉謙信(うえすぎ けんしん)なら越後の春日山城(現:新潟県上越市)など、どれだけ勢力を拡大しても本拠地は変わらないことがほとんどでした。
対して信長は勝幡(しょうばた)城で生まれて古渡(ふるわたり)城で元服、那古野(なごや)城⇒清州(きよす)城⇒小牧山(こまきやま)城⇒岐阜(ぎふ)城⇒安土(あづち)城と、生涯にわたって居城を4回以上も変えています(諸説あり)。
状況に応じたフットワークの軽さこそが拡大する戦線の諸方へ隙なく睨みを利かせ、柔軟かつ大胆な戦略を可能にしたとも言えますが、その「引っ越し」に付き合わされる家臣や領民たちはたいそう難儀した事でしょう。
しかし信長もそうした「下々の思い」はよく理解していたようで、今回は信長の引っ越しエピソードを一つ紹介したいと思います。