元禄15年12月14日(1703年1月30日)は、「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士の討ち入りが決行された日です。その日の深夜、赤穂浪士47人が、旧主・浅野長矩(浅野内匠頭)の仇である高家・吉良義央(吉良上野介)の屋敷に討ち入り、吉良の首を討ち取った話はあまりにも有名です。
この義士伝は、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目として多く上演されましたが、中でも時代を江戸時代ではなく南北朝時代に見立てた「仮名手本忠臣蔵」は特に有名で、今もなお繰り返し上演されています。
しかし全11段にもなる長編の「忠臣蔵」は、昼夜通しで上演しても1日では終わらないほど。江戸時代でも通しで上演される機会はまれで、ましてや現代では、歌舞伎の「忠臣蔵」を通しで見る事の出来る機会はほとんど無いと思っていいでしょう。
それならばせめて、あらすじだけでも知っておきたいところ。
というわけで、討ち入りが行われたこの季節にこそ改めて知りたい「仮名手本忠臣蔵」のあらすじを、今回から数回に分けて簡単にご紹介します。
大序
時は南北朝時代、暦応元年二月下旬。場面は鎌倉の鶴岡八幡宮の境内。将軍足利尊氏の弟、足利直義が兄に代わって参詣しています。直義の供連れの中には、執事の高師直(吉良上野介の見立て)、饗応役の塩冶判官(浅野内匠頭の見立て)と桃井若狭之助の姿もあります。
一行の目的はただの参詣にあらず。かき集めた数多の敵方の兜の中から、討ち取った南朝方の大将・新田義貞の兜を探しだし、鶴岡八幡宮の宝蔵に納めること。
その兜がどれかを見極めるために、塩冶判官の妻であるかほよ御前が境内に招かれました。かほよ御前はかつて宮中に仕えており、義貞の兜を見た事があったのです。かほよ御前が義貞の兜を見極めた後、美人の彼女に目を付けていた高師直が恋文を渡して言い寄ります。
困るかほよ御前を桃井若狭之助が助けますが、高師直は邪魔されたと激怒。桃井と師直は一触即発となるも、なんとかその場は収まったのでした。