豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【一】

豊臣秀頼(とよとみ ひでより)と言えば天下人・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の後継者として多くの歴史ファンにその名を知られている人物ですが、実はもう一人「豊臣秀頼」がいたことをご存じでしょうか。

それもたまたま同姓同名という訳ではなく(※そもそも豊臣という姓自体、おいそれとは名乗れません)、何と秀吉の公認です。

いったいどんな武将で、どんな人生を送ったのか、少し気になるところ……そこで今回は、戦国時代を生きた「もう一人の豊臣秀頼」について紹介したいと思います。

守護代・織田大和守の謀叛で父を失う

秀頼は天文十1541年、尾張国(現:愛知県西部)の守護・斯波義統(しば よしむね)の次男として誕生しました。

幼名は不明、『信長公記』によれば「幼君(おさなぎみ)」と記されているので、ここでは元服まで便宜上「幼君」とします。

当時、斯波家は室町幕府に認められた守護として尾張国を支配していましたが、実権は守護代の織田家に握られた傀儡(かいらい。操り人形)状態であり、その織田家も内部での争いが絶えない群雄割拠状態となっていました。

※後に尾張国を統一し、天下布武を謳って覇業を立てた織田信長(おだ のぶなが)は、現時点ではまだ織田一族の分家に過ぎない立場です。

傀儡状態に嫌気が差した義統は、自分を傀儡にしている織田大和守こと彦五郎信友(おだやまとのかみ・ひこごろうのぶとも)を追い出すため、大和守と対立していた信長と内通

大和守は信長の家督継承に伴う混乱に乗じて戦争を仕掛けるも返り討ちに遭い(萱津の戦い。天文二十一1552年8月16日)、一発逆転を狙った信長暗殺計画もリークされたため、信長に本拠地の清洲城を焼き討ちされてしまいます。

「おのれ!何ゆえ斯くもことごとく失敗するのじゃ?……もしや……!」

追い詰められた大和守は躍起になって犯人を捜した挙句、義統の裏切りを知って逆上。そして天文二十三1554年7月12日、ついに義統を弑逆(しいぎゃく。目上の者を殺すこと)してしまいます。

2ページ目 信長の支援で仇討ちを果たすものの……

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