どこか同情を覚えてしまう…。多彩な能力を発揮し織田信長の重臣として活躍した明智光秀

湯本泰隆

初回視聴率は19%を超え好調なスタートを切った大河ドラマ「麒麟がくる」

明智光秀(あけちみつひで)といえば、「本能寺の変」の実行犯であり、その行為だけを見れば謀反であり、主殺しであり、非難されるべき悪党ですが、ところが映画やテレビのドラマによっては、暴君の織田信長にいじめられ、耐えに耐えた挙句に反撃に出たように描かれ、どこか同情を誘ってしまう人物です。

怨恨説や野望説

かつては、本能寺の変は光秀の単独犯行説が定番で天下取りを志したという野望説と信長への怨恨説に分かれていました。

このうちの怨恨説は、酒宴の席で信長から大盃につがれた酒を飲むように強要されたり、満座の中で信長に頭を叩かれたりしたほか、敵に人質として差し出した実母を信長が見殺しにしたり、光秀の所領が没収されそうになったりしたことなどを根拠としてあげています。仮にこれが史実であるとしたならば、悪いのは信長のほうであって、光秀が怒るのもあたりまえ。

ところが、これらの根拠とされる話の多くは信憑性にかけ、現在では怨恨説も野望説も否定する歴史家が多くいます。また、信長が光秀につらくあたったのは信長が光秀の武将としての能力を評価していなかったという説も誤解であったといわれています。

確かに、信長と光秀ではまったく異なり、将軍・足利義昭にもつかえていた光秀は教養人でした。信長は、卑賤な生まれといわれた羽柴秀吉とは「憎めないやつ」として相性が合っていたのにくらべ、光秀とはそりが合わなかったことは十分考えられる。

だが、合理主義者の信長は好き嫌いで武将らを評価することはありませんでした。天下取りのためには、相性が合おうが合うまいが能力のある者を評価し重用しています。光秀に対しても評価は同じでした。

3ページ目 信長の重臣として活躍した光秀

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