亡き主君のために決死の仇討を遂げた赤穂浪士。そんな赤穂浪士の中には何と古代中国の思想家、孟子の末裔がいました。
しかも赤穂事件の際には吉良上野介を討ち取る程の勇猛さも備えていました。
今回は異国の血が混じったクォーター赤穂浪士、武林唯七(たけばやしただしち)についてまとめてみたいと思います。
祖父は帰化人
唯七の祖父は戦国時代に起きた文禄・慶長の役で明軍捕虜となった孟二寛(もうじかん)でした。孟二寛は日本に連行されると毛利家、次いで浅野家に明で学んだ医学を持って仕えます。
また、武士の身分に取り立てられると自身の故郷であった浙江省杭州「武林」(ぶりん)にちなんで「武林治庵」(たけばやしじあん)と名を変えました。
その後は渡辺姓を持つ妻を迎え入れ、渡辺治庵と名乗りました。