人の集まる場所に花街あり!江戸時代、女郎屋が集まる岡場所はどんな所に作られていたの?

Japaaan編集部

江戸時代、幕府公認の遊郭と言えば、江戸・吉原。この他にも京都・島原、大阪・新町があり、この3つを三大遊郭と呼んだりもします。

無論、男の性欲をこの三つの幕府公認遊郭だけでまかなうことなどできなかったわけで、全国には女郎屋や芸妓屋が集まった非公認の遊郭・花街が無数に存在していました。こういった場所を岡場所(おかばしょ)と呼びます。

では、岡場所はいったいどんな場所に作られていたのでしょうか?

旅の拠点となる「宿場」には飯盛女

江戸時代には町と町を結ぶ街道が徐々に整備されていきましたが、街道には街道を利用する者たちの拠点となる、宿場が置かれることになります。

宿場は、宿泊施設である旅籠屋の他にも、茶店、居酒屋、さまざまな飲食店が立ち並ぶことで繁華街となります。そうした人が集まるところには女郎屋が続々と登場し、やがて岡場所となります。

宿場で客に春を売る女郎たちの多くは、「飯盛旅籠」と呼ばれる旅籠屋で働くことが多かったのですが、飯盛旅籠とは、表面上はお店の配膳などの仕事をする女性として雇い、幕府には内緒で女郎たちを働かせていた旅籠のこと。

こういった飯盛旅籠で働く女郎を「飯盛女」と呼びました。実は幕府も飯盛旅籠の存在を知ってはいましたが、飯盛旅籠も一応は宿屋として営業していたため、宿場が正常に機能するためにも必要だったのです。

出た飯盛女!江戸時代の旅は犯罪、違法、迷惑行為となんでもあり。江戸時代の旅行事情【4】

1700年頃の日本で、東インド会社の人間(海外の人)が街道上を気軽に旅をする人々の様子を見て驚いたという記録があります。数キロ置きに宿場が整理され、旅行者の野宿や行き倒れなどはほとんどなく、旅…

後に幕府は飯盛旅籠としての営業をほぼほぼ認め、飯盛旅籠1軒に付き2人の女郎までならオッケー…というような規制を敷くことで許可します。その人数規制も歳月が経つにつれ、徐々に緩和されていったそうです。

3ページ目 神社やお寺の門前町には茶屋娘に扮した女郎が

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了