悲しき定め…戦国時代に将来を期待されるも若くして亡くなった3人の嫡男たち

拾丸

将来を期待されていた人物が若くして亡くなるのは非常に悲しいことです。

戦国時代でもそれは同じで、特に家督を継ぐべき能力と器を持った嫡男が親より先に先立たれるとその死を大いに惜しまれました。また、家の存続を左右することもありました。

ということで、今回は若くして亡くなった嫡男3人と死後の影響をご紹介します。

養父が死を悔いた大内晴持

まず1人目は大内晴持(おおうちはるもち)です。

晴持は大内義隆の養嗣子(家督相続人となるべき養子)です。父は一条冬房で3歳の頃に大内家に跡継ぎとして養子へ入りました。

晴持は美しい容姿と文武の才能があると共に、教養を持ち合わせていたため義隆からは溺愛されていました。

名門大内家の次代を担う器として期待をかけられた晴持は、天文11年(1542)から天文12年(1543)に起きた第一次月山富田城の戦いに義隆と共に出陣します。

戦力では勝っていた大内軍でしたが、対する尼子軍のゲリラ戦術と国人衆の裏切りにより退却となりました。

晴持は義隆と別ルートで退却用の船に乗り込みますが、尼子軍との交戦中に転覆。そして晴持は溺死し、20歳で命を散らしてしまうのでした。

晴持没後の義隆は政治に関心を失い、和歌や衆道などにハマります。そんな義隆は衆道相手だった陶晴賢(すえはるかた)に謀反を起こされ、天文20年(1551)に自害します(大寧寺の乱)。

その後の大内家は毛利元就によって義隆の死から6年後に滅亡しました。

3ページ目 父から覇業を託されていた織田信忠

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