江戸幕府3代将軍の徳川家光が亡くなった時、数人の家臣が後を追って殉死しました。実は家臣の殉死という行為は、主君と男色関係にあって異例の立身をした者の義務行為であったという風にも言われています。確かな証拠こそありませんが、有力な説として、家光の死後に殉死した者は家光と男色関係にあったと考えられているのです!
前回に引き続き、家光に生涯最も愛され、後を追った堀田正盛にスポットを当ててご紹介します。
これまでの記事はこちら
お江戸版おっさんずラブ♡将軍・徳川家光に溺愛された男、堀田正盛【1】
江戸幕府3代将軍の徳川家光が亡くなった時、数人の家臣が後を追って殉死しました。実は家臣の殉死という行為は、主君と男色関係にあって異例の立身をした者の義務行為であったという風にも言われています。…
お江戸版おっさんずラブ♡将軍・徳川家光に溺愛された男、堀田正盛【2】
江戸幕府3代将軍の徳川家光が亡くなった時、数人の家臣が後を追って殉死しました。実は家臣の殉死という行為は、主君と男色関係にあって異例の立身をした者の義務行為であったという風にも言われています。…
老中の仕事免除!?
前回までの内容で、武蔵川越藩3万5000石の藩主となり、将軍に次ぐ幕府の最高責任者である老中に就任した正盛。家光の正盛ラブは止まりません。
寛永15年(1638年)には、正盛に更に領地6万5000石が加増されてなんと10万石となり、武蔵川越藩主から信濃松本藩主となります。そして正盛が老中のままだと仕事が忙しくてあんまりいちゃつけないと思ったのか、将軍・家光は一声、
「正盛はもうそれ以上老中の仕事しなくていいよ!もっと僕の側にいてよ!」。
こうして正盛は役職上は老中のまま、実質老中の実務を免除され、大政参与という職務に回りました。大政参与とは、表に立って政務を取り仕切るというよりは、どちらかというと将軍や将軍家のプライベートに寄り添ってサポートする役目です。
こうして正盛は、合法的に家光の傍に居やすくなりました。生涯に渡って精神的に不安定で、鬱ぎみだった家光。正盛の存在はどれほど心強かった事でしょう。