黒田官兵衛(くろだかんべえ)と竹中半兵衛(たけなかはんべえ)。2人は共に豊臣秀吉に仕え、軍師として秀吉を支えていました。
半兵衛の方が先に秀吉に仕えていましたが、官兵衛と年齢も近いこともあり、良きライバルとして功を競い合っていました。また2人は共に兵衛がつくことから「両兵衛」と呼ばれていました。
そんな2人に関する面白いエピソードがありましたので、今回はそれをご紹介します。
信長の家臣の謀反に官兵衛が動く
官兵衛は最初に小寺政職(こでらまさもと)という大名に仕えていました。やがて織田信長に将来性を感じ天正3年(1575)には政職と共に仕えます。
その時に官兵衛は仕える条件として自身の子の松寿丸(しょうじゅまる)を信長に人質として差し出しています。
主君を変えて心機一転かと思いきや天正6年(1578)に信長の家臣、荒木村重が裏切ります。それに呼応して政職も裏切りそうだったので交渉力に長けた官兵衛は村重の気を変えるために村重のいる有岡城へ行きます。
しかし、説得は失敗し幽閉されてしまいました。