武士が小細工を弄するな!鎌倉武士の鑑・畠山重忠の高潔なエピソードを紹介

いつの世も、他人を妬んでその足を引っ張る手合いは絶えませんが、それは武士たちにおいても同じだったようです。

一方、そうした振舞いを嫌う者も少なからずおり、今回は鎌倉幕府におけるあるエピソードを紹介したいと思います。

鎌倉幕府・侍所で抜刀騒ぎ!

時は鎌倉初期・正治二1200年2月2日。幕府の二代目将軍・源頼家(みなもとの よりいえ)が、御家人の波多野三郎盛通(はたの さぶろうもりみち)に対して同じく御家人である勝木七郎則宗(かつきの しちろうもりむね)を生け捕るよう命じました。

この則宗、頼家の側近でありながら、この年1月に謀叛の疑いで粛清された梶原平三郎景時(かじわらの へいざぶろうかげとき)と内通していたことが発覚したのです。

頼家は盛通と共に侍所(さむらいどころ)を訪れ、何食わぬ顔で出勤していた則宗に逮捕する旨を伝えます。

「かくかくしかじかなれば、既に証拠は明らか……さぁ七郎殿、大人しくお縄につかれい!」

侍所には他の御家人たちも勤務していて、現場はにわかにざわつき出します。

証拠を突きつけられた則宗は顔色こそ青ざめましたが、それでも大人しく従うようなタマであれば、そもそも謀叛の内通などしません。

「ちっ、バレたか!……かくなる上は逃げるに如かず!」

何の準備もないまま一人暴れたところで取り押さえられるのがオチ。ならばここは強行突破で脱出し、本拠地に戻って手勢を掻き集めよう。

そう判断した則宗は瞬時に立ち上がると、脱兎のごとく逃げ出そうとします。

「待たんか、こらッ!」

盛通はすぐさま則宗に追いついて羽交い絞めにしましたが、則宗は相撲の達者として知られる怪力の持ち主でした。

相撲と言っても今日のそれとは大きくことなり、拳や蹴りも許される組討(くみうち)ですから、則宗は格闘家のようなイメージです。

則宗はすぐさま盛通の腕を振りほどくと、差していた腰刀(こしがたな。太刀とは別に身につける護身用の短刀)を抜き放ちました。

「死ねぇっ!」

俄かに体勢を崩した盛通に突きかかる則宗を、間一髪で制止した者がいました。ちょうどその場にいた、畠山次郎重忠(はたけやまの じろうしげただ)です。

5ページ目 座ったまま、左腕一本で賊をねじ伏せる!

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了