仇討ちに決起した女武者「坂額御前」の武勇伝!鎌倉時代の建仁の乱で活躍(上)

いきなりですが、もし恩人が殺されたら、あなたはどうしますか?

訴えますか?泣き寝入りしますか?……それとも「仇(あだ/かたき)」を討ちますか?

今回は鎌倉時代、越後国(現:新潟県)で「仇討ち」に決起した女武者・坂額御前(はんがくごぜん)のエピソードを紹介したいと思います。

※現代では「板額御前」の表記が一般的ですが、彼女の初出である『吾妻鏡』の表記で統一します。

「鎌倉一の郎党」梶原景時の暗殺

時は鎌倉時代、正治二1200年1月20日。頼朝公の亡き後、その「懐刀」として腕を振るった「鎌倉一の郎党」梶原平三景時(かじわらの へいざかげとき)が政争に敗れて失脚、暗殺されてしまいます。

景時は頼朝公の生前、鎌倉幕府の「憎まれ役」としてダーティな仕事(讒訴や暗殺など)を一手に引き受ける忠臣でしたが、同時に多くの御家人たちから怨みを買っていました。

頼朝公亡き後、その嫡男である二代目将軍・頼家(よりいえ)公にも仕えますが、頼家公はさんざん景時を利用しておきながら、都合が悪くなるとあっさり見棄ててしまいます。

これまでの「悪行」について実に66名の御家人から弾劾された景時ら梶原一族は、鎌倉を追われたため、京都の公家たちに伝手を求めて上洛します。

すると幕府当局は「待ってました」とばかりそれを「謀叛」と決めつけて追手を差し向け、駿河国庵原郡狐崎(現:静岡県静岡市狐ヶ崎)で景時らを討ち取らせます。

かくして景時以下33名は路傍に梟首(きょうしゅ。さらし首)とされ、ここに鎌倉幕府の草創期から頼朝公を支え続けた梶原一族は没落してしまったのでした。

「さて、鎌倉きっての『嫌われ者』もいなくなったし、これで天下も幕府も安泰じゃ……」

多くの御家人たちはそう思ったかも知れませんが、既に新たな「謀叛」の火種が、鎌倉より遠く、越後の地にくすぶり始めていたのでした。

2ページ目 坂額御前と越後の名門・城一族

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