埼玉県比企郡にある嵐山町(らんざんまち)。この地域は昭和のはじめまで菅谷村と呼ばれていました。
この菅谷村を武蔵嵐山(むさしらんざん)と名づけたのが本多静六。改名の理由は、「近くにある渓谷が京都の嵐山(あらしやま)の風景にあまりにも似ていたから」だといいます。
静六の専門は林学。造園家として、また日本初の林学者として、日比谷公園や明治神宮の森を初めとする全国各地の公園の設計に携わり、現代日本の公園の枠組みを作りました。
このことから、本多静六は、「日本公園の父」と称されています。
1866(慶応2)年、埼玉郡河原井村(現埼玉県久喜市菖蒲町河原井)に折原家の第6子として生まれた清六は、河原井村で少年時代を過ごしました。当時の河原井村は、戸数25軒ほどの小さな村でしたが、折原家は代々名主役を務める裕福な家庭でした。
ところが9歳の時に父親が急死すると同時に多額の借金が家に舞い込むようになり、それまでとは違った苦しい生活を強いられるようになります。しかし、それでも静六の向学心は衰えることはなく、14歳になると、島村泰(元岩槻藩塾長)のもとに書生として住み込むことにしました。
そして、農閑期の半年は上京し勉学に励み、農繁期の半年は帰省して農作業や米搗つきに励むという生活を送りながら、3年間繰り返しました。
1884(明治17)年、東京山林学校(後に東京農林学校から帝国大学農科大学)に入学。学校を首席で卒業すると、林学を修めるためにドイツへ留学しました。
ドイツでは、2つの学校に学び、最初はドレスデン郊外にあるターラントの山林学校(現在はドレスデン工科大学林学部)で半年学んだ後、ミュンヘン大学へ転校。さらに1年半学問を究め、ドクトルの学位を授与されました。学位をとった静六は、欧米を視察したあと帰国し、母校で教鞭をとることになります。