日本は四方を海に囲まれた島国ですが、その海を越えて多くの人やモノ、そして文化が行き交ったことは、今も昔も同じようです。
今回は古墳時代(ここでは6~7世紀ごろ)、日本海を越えて交流していた北方の異民族「粛慎(みしはせ)」について紹介したいと思います。
謎の狩猟民族「粛慎」について
粛慎とは『日本書紀』などに登場し、満洲地方の沿岸部や樺太一帯に住んでいた狩猟民族と考えられています。
中国の史書にも同じ漢字で「粛慎(しゅくしん)」という民族が記録されていますが、活動年代がそれぞれ違うため、その同一性については諸説あるようです。
※中国の粛慎が紀元前まで存在していた(とされる)のに対して、『日本書紀』などの記録は6~7世紀ごろとなっています。
ただ、中国の史書では、粛慎の後も同じ地域に粛慎の末裔とされるユウ婁(ゆうろう。ユウは手偏に邑。~5世紀半ばごろ)や勿吉(もっきつ。~6世紀末ごろ)、靺鞨(まっかつ。~7世紀ごろ)といった諸民族が入れ替わりに支配していました。
……と言うより、むしろ中国政権側からの呼び方(記録に残す名称)が移り変わっただけで、当の粛慎たちは大して気にしていなかったのかも知れません。
そして日本は日本で、粛慎という古称(昔からの呼び方)をそのまま使い続けていた可能性もあり、ここでは「粛慎(みしはせ)≒粛慎(しゅくしん)」という説を前提とします。
また、粛慎の読みについても「みしはせ」だけでなく「あしはせ」とする説もあり、いまだ謎に包まれています。
5ページ目 怪現象や略奪騒ぎ……「粛慎」とのファーストコンタクト