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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第32話
前回の第31話はこちらから[insert_post id=86295]文政九年 桜の三月[caption id="attachment_86683" align="aligncente…
文政十年、正月二日。
長い長い永遠の夢が、千切れて落ちて、踏み付けられた。
■文政十年、正月
国芳は、吉原遊廓の大門を飛び出して駆けた。
腕には大きな花魁の仕掛(しかけ)を抱え、時には転んで血を流しても、破茶滅茶に駆けた。
鬢の毛は逆立ち、目は紅の涙が流れそうな程に血走っていた。
どこを目指しているのかも分からない。
ただ、ここでなければいい。
吉原遊廓(ここ)の存在しない何処かに、逃げ出したかった。
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欲しいものは、全て手に入った。
文政九年の秋から刊行し始めた「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」は江戸で爆発的に売れた。
今までに誰も描いた事のない、今にも紙の中から飛び出てくるような力強い筆致と、隙間なく描き込まれた精緻な衣服の模様や刺青の描写、画面に溢れる極彩色。
国芳の絵は、伝法者から子どもに至る全ての江戸っ子の心を掴んだのである。
その人気の凄まじさは、今まで多くの水滸伝作品を手掛けた戯作者・曲亭馬琴が手紙に強調するほどだった。
版元の加賀屋が抱える彫師摺師だけでは増刷が追いつかなくなり、他の地本問屋から腕の良い職人を借り出した。
初版の九紋龍史進(くもんりゅうししん)、花和尚魯智深(はなおしょうろちしん)、黒旋風李逵(こくせんぷうりき)、少し後に加えて扈三娘一丈青(こさんじょういちじょうせい)、行者武松(ぎょうじゃぶしょう)の五人の豪傑の版木は三度も彫り直した。まさに嬉しい悲鳴である。
この異例の事態を受け、加賀屋は初版の五枚に続いて他の豪傑たちを順々に売り出した。それでもなお「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」は飛ぶ鳥を落とす勢いで売れている。それまでの「揃物」といえば三枚ほどで一揃いしたが、国芳の通俗水滸伝は浮世絵を何十枚規模で揃えて集めるという新しい楽しみを世に広めたのである。