数奇なめぐりあわせ…藤原行成は藤原道長と同じ日に亡くなった?最期まで影の男だった行成の人生

しゃかりき

以前、藤原行成が書家としてだけでなく、一条天皇の側近として政治の手腕も発揮していたという記事を書きました。

書の才能だけじゃない!能筆家・藤原行成の能吏としての才能がわかるエピソード

平安時代中期の書家として知られる藤原行成[caption id="attachment_75391" align="aligncenter" width="660"] 白氏詩巻(国宝)[/capt…

道長の娘・彰子の子である敦成を天皇に、と一条天皇に進言し、みごと成ったエピソードをかいつまんで紹介しましたね。

一条天皇、そして藤原道長の側近だった藤原行成

そう、行成は道長の側近でもあり、天皇との橋渡し役としてかなり重宝されていたわけです。ほかにも、道長は行成の書の腕前をこう評価しており、「原本はあげるからあなたが書き写した写本をくれないか」と言われた、なんてエピソードもあります。

行成、道長と同日に薨去

そんな縁のある二人、なんと同年同日に亡くなってしまったのです。

道長が亡くなったのが万寿4年12月4日、そして行成が亡くなったのも万寿4年12月4日。なんという運命でしょう。

実際、行成は亡くなる数日前に倒れてそのまま亡くなった、と藤原実資の日記「小右記」に記されています。道長も数日腫れものに苦しんだ後の死であったといいますが、道長が死ぬ前に複数の阿弥陀如来の手と自身の手を糸でつなぎ、読経しながら亡くなったという話は有名ですよね。

世間も時の権力者である道長が危篤ということで大わらわ。しかも、「小右記」によれば道長が亡くなったのが早朝、行成が亡くなったのが同日の夜。行成が息を引き取ったころは、世間は「天下の道長が亡くなった」ニュースでにぎわっており、誰も行成の死を気にかけなかったんだそう。

せめて先に亡くなっていれば、もう少し世間に注目されたかもしれませんね。

3ページ目 行成は最後まで道長の影の存在だった

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