前回は、尾張藩主・徳川慶勝が長州征伐総督でありながら、大きな湿板カメラを長州征伐に持参してしまうほどのマイペースお殿様だった事をご紹介しました。
西郷どんとともに英断を下した徳川慶勝は元祖カメラ小僧だった[前編]
長州征伐の合間も写真に勤しむ…西郷どんとともに英断を下した徳川慶勝は元祖カメラ小僧だった [中編]
しかし時は幕末。そんなマイペース慶勝にも、ついに試練の時が訪れます。
慶勝の下した重大な決断
第1次長州征伐を中止し、慶喜に激怒されたところから、幕府と仲が悪くなっていた慶勝。
彼はやがて、幕府から最も信頼の厚い御三家筆頭格の尾張という家柄を背負いながら、重大な決断を下します。
「徳川を見限り、新政府側に味方する。」
自分だけでなく、弟たちも幕府からの信頼が厚い会津藩主と桑名藩主だった慶勝。答えを出すまでに相当悩んだに違いありません。何より、新政府側に付くにあたり、慶勝は勅命によって尾張藩内の佐幕派の家臣を一斉粛清しなくてはならなりませんでした。
この事件により、後世では慶勝の事を非情な藩主と批判する声もあるのは事実です。しかし官軍側に付く事になり、結果としては彼の選択が尾張藩の多くの民を守る事になったのでした。
明治維新での功績
倒幕の道を選んでからというもの、慶勝が明治維新に果たした功績は、計り知れないものがあります。挙兵した新政府軍が、西国から江戸までの長い道中で大きな攻撃も受けずにすみやかに進軍できたのは、慶勝が尾張から江戸の間に位置する藩や寺社に向けて膨大な量の手紙を書いたり、使者を派遣して「新政府側に付いた方がいい」と説得したからに他なりません。
幕府軍に比べて人数も少なく、軍としては生まれたての赤ちゃん状態の新政府軍を守るために、慶勝は寝る間も惜しんで奔走し、半年間で約750通もの手紙(勤皇誘引書類)を書きました。
本当はカメラ撮影をこよなく愛するマイペースなお殿様なのに、そのマイペースを封印し、民のためにものすごい行動力を発揮した慶勝は、やはり賢君であったと言わざるをえません。