西郷と大久保をとりまく薩摩藩の内部事情
薩摩の西郷隆盛と大久保利通といえば、二人して討幕に奔走し、明治政府樹立を成し遂げた立役者です。二人は、生まれた時から家も近く、幼馴染であり無二の親友でした。共に幕末の動乱を切り抜けた二人はしかし、最後には別々の道を歩むことになります。二人が道を違える事になったのは、いつだったのでしょうか。今回は二人の友情と決別に迫ります。
道半ばにして袂を分かった西郷と大久保について話すためには、薩摩藩の内部事情を少し説明しなくてはなりません。
幕末の四賢侯・島津斉彬
下級武士の家に生まれた西郷が11代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)によって見出され、そのために斉彬を崇拝していたことは有名です。
島津斉彬公は当時には珍しい開明的な思考を持ち、幕末の四賢侯に数えられるほどの名君でした。大砲を製造する反射炉を作り、薩摩切子を特産として開発し、蒸気船まで完成。斉彬は西洋に負けない産業国を目指し、数々の功績を上げました。
しかし、そういった先進技術の開発にはお金がつきもの。斉彬が技術革新のために多くの投資をする姿勢を危うく思った、斉彬の実父・10代藩主の斉興が、長い間藩主の座を譲らなかったため、斉彬は43歳にしてようやく藩主になります。
このとき、家督相続を巡って大きなお家騒動が起きていました。斉彬には、腹違いの弟・久光がいたのです。久光を産んだ母親のお由羅は、側室の身でありながら斉興に久光を藩主にするよう迫っていました。
結果的に久光派の意見は退けられ、斉彬が藩主になったものの、今度は斉彬の嫡子が次々に亡くなるという不幸に見舞われました。世間ではこれはお由羅の呪いだと言われ、西郷もそう信じてお由羅と子息の久光を憎みました。
そうしているうちに斉彬は亡くなり、嫡子が早世して居ないために久光の幼い子息が藩主となると、今度は久光が藩主の父(国父)として権力をふるうようになります。