『べらぼう』庶民、幕閣、大奥から総スカンの松平定信!祖父・徳川吉宗との改革の違いを徹底比較[後編]

高野晃彰

NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』では、主人公・蔦屋重三郎(横浜流星)を中心とする仲間たちが「チーム蔦中」を結成、彼らが「ふんどし野郎」と呼ぶのが、幕府の筆頭老中・松平定信(井上祐貴)だ。

定信は、江戸幕府の三大改革(田沼意次の政治を含め「四大改革」とも)に数えられる「寛政の改革」を主導した人物。彼が理想としたのは、祖父であり第8代将軍・徳川吉宗の政治、すなわち「享保の改革」だった。

吉宗の享保の改革が、幕府財政の立て直しに成功したと評価される一方、定信の寛政の改革は、あまりに厳格すぎたため反発を招き、失敗に終わったとされている。

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『べらぼう』寛政の改革は失敗? 松平定信と祖父・徳川吉宗の改革を徹底比較[中編]

NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』では、主人公・蔦屋重三郎(横浜流星)を中心とする仲間たちが「チーム蔦中」を結成し、彼らが「ふんどし野郎」と呼ぶのが、幕府の筆頭老中・松平定信(井上祐貴)だ…

最終回の[後編]では、両改革の代表的な政策を取り上げ、その相違点について考察する。

農業を重視しながらも商業を取り入れた享保の改革

では、徳川吉宗の「享保の改革」の主な政策を見てみよう。

吉宗は合理主義者と称されることが多い。彼が将軍職についたのは1716年(享保元年)で、幕府創設以来、約100年以上が経過していた。

そのため、従来の幕府システムのままでは、革新的な政策を行うことが難しい状況だった。そこで吉宗は、合理的な観点からさまざまなシステム改革に着手している。

まずは、幕府の税収の基本である米政策について吉宗が行った、「天領の新田開発」「上米の制」「定免法」を考察しよう。

「新田開発」は文字通り新たな水田を開発し、米の生産量を増やす政策である。しかし、吉宗が将軍に就任した当時、幕府には開発費用が不足していた。そこで江戸・日本橋に新田開発の高札を立て、町人請負を含む開発促進方針を公示した。

つまり吉宗は、江戸の大商人たちに「幕府と一緒に新田開発をしませんか」と呼びかけたのである。こうして、下総国の飯沼新田、武蔵国の見沼新田、越後国の紫雲寺潟新田など、広大な新田が開発され、天領(幕府領)の石高は約60万石も増加した。

さらに、諸大名に毎年1万石につき100石を献米させる「上米の制」を実施した。この制度を導入する代わりに、参勤交代の際の江戸在府期間は従来の1年から半年に短縮された。

また税制改革として、年貢を一定期間固定する「定免法」に転換した。これは、豊作や凶作にかかわらず年貢収入を安定させるとともに、役人の不正を防ぐ狙いもあったという。

このような米政策を実行した吉宗は、米価統制のために大阪・堂島の「米市場を公認」し、江戸商人を相場に介入させようとした。

この他、身分に関係なく将軍に直接意見を届けることができる「目安箱」を設置し、批判的な意見もきちんと受け入れていた。この「目安箱」から生まれたのが、庶民のための無料療養所である小石川療養所や、現在の消防につながる江戸火消しの組織化である。

そして、裁判の基準を明確化した「公事方御定書」を発布した。これにより、従来の「死刑」か「無罪」かといった極端な判決に偏らない、公平な裁判の実現を目指した。また、キリスト教に関わるものを除く洋書の輸入を解禁したことで、「蘭学の発展」を促すことにもつながった。

最後に「足高の制」について触れたい。実はこれこそが、吉宗のシステム改革の真骨頂とも呼ぶべきものであった。幕府の役職に就くためには、それに見合った禄高が必要とされた。しかし禄高は世襲制で代々受け継ぐものであったため、能力や素質があっても家柄が低ければ要職に就けないという不都合が生じていた。

これを解消するために、吉宗は役職に必要な禄高に達していない者について、在職中に限り禄を加増し、より高い役職に就けるようにしたのである。名奉行として知られる大岡忠相も、この「足高の制」によって要職に登用された一人であった。

以上、吉宗が「享保の改革」で行った主要な政策を挙げてみた。吉宗の政策はほかにも数多く存在するが、主なものだけを見ても実に多様であることがわかる。

吉宗は「米将軍」と呼ばれるほど農業を重視した重農主義の政策を基盤としたと考えられがちである。しかし、「新田開発」にせよ「米相場への介入」にせよ、商業の重要性も十分に理解し、政策に取り入れていた。その意味で、吉宗は合理主義者であると同時に、優れたバランス感覚を備えた為政者であったといえる。

吉宗の政策は、贅沢禁止や年貢アップなど、庶民から反発を受けたものもあった。しかし、「享保の改革」があったからこそ、その後も江戸幕府が約150年にわたり存続することができたのは間違いないだろう。

3ページ目 重商主義の田沼を憎むあまり、現実と乖離した寛政の改革

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