孔子を「斬る」と言い放った学者!幕末尊王思想のルーツはここに…知られざる山崎闇斎の生涯【後編】

湯本泰隆

前編では、僧から儒者へと転身した山崎闇斎が、やがて神道と儒学を結びつけて「垂加神道」を生み出すまでをたどりました。

【前編】の記事↓

孔子を「斬る」と言い放った学者!幕末尊王思想のルーツはここに…知られざる山崎闇斎の生涯【前編】

「もし孔子や孟子が日本に攻めてきたら、どうする?」江戸時代の学者・山崎闇斎(やまざき あんさい)は、弟子たちにこう問いかけました。突然の質問に答えられず黙り込む弟子に対して、闇斎は「戦って斬る…

では、その思想はどのように弟子たちへ受け継がれ、日本の歴史に影響を残していったのでしょうか。後編では、闇斎の学問が広がり、幕末の尊王思想へとつながっていく流れを見ていきます。

崎門学派と弟子たち

闇斎のもとには、佐藤直方、浅見絅斎、三宅尚斎、谷秦山、渋川春海など多くの弟子が集まりました。彼らの活動を通じて「崎門学派」と呼ばれる学問の流れが確立します。

特に浅見絅斎が書いた『靖献遺言』は、忠義の精神を説いた書物として広く読まれました。幕末の志士たちがこれを座右に置いたことで、闇斎の思想は百年以上の時を超えて息を吹き返すことになります。

革命を否定した思想

闇斎は、中国の王朝交代の理屈である「易姓革命」を真っ向から否定しました。暴君であっても君主には忠義を尽くすべきだ、という立場を貫いたのです。

この考え方は弟子たちに受け継がれ、やがて「天皇への忠義」という形で強調されます。結果として幕末の尊王思想に直結し、日本の近代史を動かす原動力の一部となりました。

弟子たちと衝突し、破門や絶交に至ることも少なくありませんでした。融通のきかない性格だったとも言えますが、それは妥協を許さず学問に真剣であった証でもあります。「林家の阿世、崎門の絶交」と言われたのは、その姿勢をよく表しています。

2ページ目 晩年と祀られた闇斎

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