徳島に暮らしていれば、「蜂須賀(はちすか)」という名前に聞き覚えがある人も多いでしょう。駅や学校、橋や施設、いろいろな場所にその名が残っています。でも、名前の由来まで知っている人は、案外少ないかもしれません。
由来となった人物の名前は、蜂須賀家政(はちすか いえまさ)。阿波国――つまり現在の徳島県を治めた初代藩主です。しかし、家政は、ただ武力だけで成り上がった武将ではありませんでした。大きな時代の波を読み、刀よりも知恵で国を守った「生き残りの名手」とでも呼ぶべき人物でした。
その生き方をたどると、「戦国武将=戦ってばかり」というイメージが、少し揺らいでくるかもしれません。
13歳で初陣、父とともに戦場へ
家政が生まれたのは1558年。尾張国、いまの愛知県でのことです。父は蜂須賀小六(正勝)といい、豊臣秀吉の子飼いの武将として有名な人物。そんな家に生まれた家政もまた、若くして武士としての道を歩み始めます。
初陣は、なんと13歳。戦場は姉川。名だたる武将たちが激突するなか、まだ少年の家政が戦に身を投じたのです。
その後は、父とともに各地の戦に出陣。中国、四国、九州、小田原――派手さはなくとも、しっかりと戦功を積み重ねていきます。
阿波一国、十八万石の大名に
1585年、家政は秀吉から阿波国一国、十八万石の大名として任じられます。
土地の広さもさることながら、阿波という場所は決してやさしい領地ではありませんでした。
当時の拠点は山奥の一宮城。守りには優れていても、広い国を治めるには不便すぎる。家政は早々に決断を下します。
山を下りて、新たに徳島城を築き、城下町づくりを始めたのです。これが、いまの徳島市のはじまりになります。
ですが、支配の交代は、そう簡単には受け入れられません。阿波には土着の土豪たちが残り、蜂須賀の支配に反発を見せました。祖谷山一揆――これはその象徴ともいえる事件です。
