「江戸は寒村」はウソだった!?豊臣秀吉と徳川家康の”国替え”に隠された壮大な戦略とは?【後編】

歴史 好き太郎

秀吉による国替え

【前編】では、徳川家康による統治が始まる前の江戸の町は「寒村」だったというこれまでの見方が俗説に過ぎないことを解説しました。

「江戸は寒村だった」は作られたイメージ!実は徳川家康の江戸入り前から交通・交易の要所だった【前編】

江戸は「寒村」、江戸城は「粗末」?江戸の町はもともとは寂れた寒村に過ぎず、それが徳川家康の開発によって繁栄。そこに至るまでの「国替え」は、豊臣秀吉の謀略だったという説が一般的です。[cap…

では、それを踏まえて豊臣秀吉から家康への「国替え」はどのような意図で行われたのでしょうか。【後編】ではそれを見ていきましょう。

徳川家康の江戸入りの経緯については、以下のエピソードが有名です。すなわち、豊臣秀吉が北条氏を滅亡させた小田原征伐の最中、小田原城を眼下にしながら家康に「関八州を与える」と言った――。

もっと具体的には、この時秀吉は「奥州に向かわなくてはならないので、小田原城より東方にある江戸を本城とするのが良い」と家康に話したとされます。

江戸は統治の要

これについて近年の研究では、家康が豊臣政権の東国政策で制圧地域の統治に尽力する役割を果たしたことがポイントだとされています。

当時の関東奥羽は不穏な情勢にありました。そこで江戸を統治の要とすることを秀吉は考えており、家康の江戸入りはその構想に基づいて考えられた政治的処置であったと考えられます。

これについては、秀吉が徳川の勢力を警戒し、へき地の江戸をあてがったとする謀略説も古くから存在しますね。しかし最新の学説では、秀吉はむしろ江戸の重要性を認識していたとするのが一般的です。

ちなみに北条氏の最大版図を築いた4代目・氏政は家督を氏直に譲った後、ご隠居様と呼ばれ、江戸城に移りました。

もともと家康は氏政と同盟関係にあったため、江戸の状況を把握しており、北条氏の領国経営を一部踏襲しています。

つまり家康は未開の地である江戸を開発したのではなかったのです。北条氏の城下を下地にしながら、江戸の可能性を掘り起こした点に家康の真価があると言えるでしょう。

2ページ目 家康以降の「天下普請」

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