突然ですが、皆さんは岡定俊という戦国武将はご存知でしょうか。
蒲生氏郷と上杉景勝に重臣として仕え、左内の通称で知られていますが、知名度に関しては低いと言わざるを得ません。
そのような人物でありながら、左内はお金に関するエピソードが豊富なことで一部から知られています。
また、左内にはお金を使った可笑しな趣味もあったとか。
今回は岡左内の人となりとお金にまつわるエピソードをご紹介します。
※本記事では通称の左内で統一しております。
武勇に優れた一面を持っていた
左内は若狭国太良庄城(現在の福井県小浜市)城主・岡盛俊の子として永禄10年(1567)に誕生しました。元亀4年(1573)には若狭国が丹羽長秀の領地になった際、蒲生氏郷に仕えます。
若くして武勇に優れ、天正12年(1584)に小牧・長久手の戦い中に起こった戸木城の戦いでは、18歳ながら畑重正を討ち取る活躍をしました。
しかし、蒲生家のお家騒動である蒲生騒動で会津92万石から宇都宮18万石に減封となると、蒲生家に替わって会津を領地にした上杉景勝に仕官します。
ここでも優れた武勇を発揮し、慶長5年(1600)に起こった松川の戦いで傷を負いながらも伊達政宗を打ち破る活躍をしました。
また、熱心なキリシタンとして知られ、この戦いの時に伴天連より贈られた南蛮胴を身に着けていたと言われています。
しかしながら、上杉家が米沢30万石に減封となると再度会津の領主となった蒲生秀行に仕えました。
その後、慶長14年には猪苗代城城代に任命され、元和8年(1622)に亡くなりました。