藤原道長(柄本佑)の死によって再び世が乱れ、嵐(武士の世)が来ることを予見したまひろ(吉高由里子)。颯爽と駆け去っていく双寿丸(伊藤健太郎)らの後ろ姿が印象的でした。
……令和6年(2024年)NHK大河ドラマ「光る君へ」もついに終わってしまいましたね。平安時代の人々をもっと観ていたかったのですが、残念でなりません。
色々思う所はありましたが、最終回放送「物語の先へ」も気になるトピックを振り返っていきましょう!
最終回放送「物語の先へ」関連略年表
寛仁3年(1019年)まひろ50歳/道長54歳
- 6月9日 藤原顕光が左大臣を辞退する
- 6月15日 藤原道綱が藤原道長に大臣位をねだる
寛仁4年(1020年)まひろ51歳/道長55歳
- 10月15日 藤原道綱が薨去する
万寿2年(1025年)まひろ56歳/道長60歳
- 7月9日 藤原寛子(道長三女)が薨去する
- 8月3日 藤原嬉子(道長六女)が親仁親王(のち後冷泉天皇)を出産する
- 8月5日 藤原嬉子が薨去する
- 時期不詳 このころ清少納言が死去?(諸説あり)
万寿3年(1026年)まひろ57歳/道長61歳
- 1月19日 藤原彰子が出家し、上東門院と号される
万寿4年(1027年)まひろ58歳/道長62歳
- 5月14日 藤原顕信(道長三男)が卒去する
- 6月13日 源俊賢が薨去する
- 9月14日 藤原妍子(道長次女)が崩御する
- 12月4日 藤原道長が薨去する
- 同日 藤原行成が薨去する
長元元年(1028年)まひろ59歳/道長死後
- 6月 平忠常の乱が勃発
長元年間(1028~1037年)まひろ59~68歳
- まひろ死去?(諸説ある中の最長説)
予想通り、最終回は一気にすっ飛ばしましたね。
藤原顕光(宮川一朗太)の引退や藤原彰子(見上愛)の成長、そして身近な者たちの死などが一気に詰め込まれた印象です。
まひろのモデルになった藤式部(紫式部)については、とっくに亡くなっている可能性もあるため、劇中のエピソードはほぼフィクションと思って構いません。
フィクションと言えば、源倫子(黒木華)の振舞いを見て、不倫に対する怒りを新たにしました。
当時は婚外性交渉がどのくらい当たり前だったかはさておき、妾になる(正室の許可が必要なら許可を求める)など筋の通し方はあるはずです。
しかし当の倫子が胸に収めた以上、これより言うことはありません。
道長の闘病記録
万寿4年(1027年)12月4日に道長は世を去りましたが、劇中では何だか穏やかな感じでした。
実際はどんな感じだったのか、ここでは藤原実資『小右記』などから、道長の闘病記録を見てみましょう。
- 11月10日 寝たきりのまま汚穢。ただし意識は正常
- 11月12日 沐浴して念仏を唱える。周囲が動揺する
- 11月21日 下痢が激しく、背中の腫物が悪化する
- 同日 藤原彰子と藤原威子が見舞うも、汚穢のため面会謝絶。
- 11月25日 阿弥陀堂の正面に移される。
- 11月30日 背中の腫物について、鍼治療が決定される。
- 12月2日 背中の腫物に鍼治療を実施。激しく苦しむ。
- 12月4日 寅刻(午前3~5時)に入滅する。
かねてから道長は、飲水の病(糖尿病)で昏倒したり目が見えなくなっていたりしていました。
汚穢(おわい)とは文字通りケガレのことで、ここでは排泄物等を指します。
11月10日に汚穢があってから、沐浴したのは2日後。その間さぞ気持ち悪かったでしょうが、そんな余裕さえなかったようです。
娘たちが見舞いに来ても面会謝絶、いよいよお迎えも近くなり、自ら建立した法成寺に移動しました。
そして背中の腫れ物を手術したものの、苦悶の末に世を去ります。