やっぱり日本が大好きっ!「シーボルト事件」で国外追放されたシーボルト、なんと30年後に再来日していた!

シーボルト事件とは

シーボルト事件という、江戸時代に起きた事件があります。

これは江戸時代後期の1828年(文政11年)に、ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが起こした事件です。

彼は国防上の理由から、日本国外への持ち出しが禁止されていた「大日本沿海輿地全図」(「伊能図」)などを持ち出そうとしました。それが発覚し国外追放処分を受けたのです。まずは、その経緯を少し詳しく見ていきましょう。

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先にシーボルトはドイツ人医師と書きましたが、当初、彼は自分をオランダ人と偽って、長崎・出島のオランダ商館医師として来日しました。これが1823年 (文政六)のことです。

その翌年、蘭学や医学を教える鳴滝塾を開設すると、評判を聞きつけた医者や学者が日本中から集まってきます。

シーボルトの下で学んだ生徒には、医者兼蘭学者の高野長英、同じく二宮敬作、医者になった伊東玄朴などがおり、多くの教え子が西洋の知識や技術を身につけて活躍しました。

また、シーボルトはオランダ商館長の江戸参府に随行したり、多くの日本人学者と交流して日本の自然や地理・文化などを研究しています。

さらにその間、日本女性の楠本滝と結婚してイネという娘をもうけています。

大きく狂ったシーボルトの人生

やがて五年の任期が終わり、オランダへ帰国することになりました。そのさい、シーボルトの荷物を載せた船が座礁し、その積荷から、日本の実測図など国外持ち出し禁制の品が多数発見されました。

これによってシーボルトとその門下生および知人たちが、今でいうスパイ容疑で捕らえられてシーボルト自身は国外追放となりました。

この事件で、シーボルトに地図を贈った幕府の書物奉行兼天文方筆頭である高橋景保をはじめ、多数の関係者や蘭学者が幕府によって処罰されました。

このことから、この事件は蛮社の獄に先立つ蘭学者弾圧事件だとされています。

ちなみに、シーボルト自身が日本という国に純粋に興味関心を持ち、研究者としての立場で日本に滞在していたのは間違いないようです。一方で、彼がスパイの役割を担っていたことを思わせる傍証も皆無ではありません。

さてその後、そもそもの元凶であるシーボルトはどうなったのでしょうか。彼が国外追放の憂き目に遭ったのはよく知られていても、実はその後、また来日していたことはあまり知られていません。

もともと、彼はオランダへ帰国してからも三年後には再来日する予定でした。しかし事件によってシーボルの人生計画は大きく狂うことになります。

3ページ目 30年を経て再来日したシーボルト

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