平安時代の人権意識など無くて無いようなものですが、こと庶民のしかも犯罪容疑者ともなれば、それこそ虫けら以下でした。
令和の現代だって犯罪者には厳しい目が向けられるものの、当時はその比ではなかったことでしょう。
現代では裁判を受けられたり黙秘権が認められたり、また拷問が禁じられていたりします。
しかし当時にそんな気の利いた概念はなく、ひとたび捕らわれたら最後、どんな目に遭うか分かったものではありません。何なら生きて釈放される保証すらないでしょう。
そんな中、今回は冤罪で逮捕されてしまった犬男丸(いぬをまる)のエピソードを紹介。果たして彼が、どんな容疑をかけられたのか気になります。
助光殺害事件
時は万寿4年(1027年)2月、藤原実資の車副(くるまぞい)である助光(すけみつ。姓は不詳)が殺害されました。
車副とは牛車の左右について牛をリードする役目。言うまでもなく低い身分です。
そんな助光が帰宅するため平安京を出て嵯峨へ向かうため、直線距離で7~8キロはあろう道のりを歩いていたのでした。
当時の車副(またはそのクラスの人物)は住み込みでたまに帰宅するスタイルだったのか、あるいは毎朝通勤するスタイルだったのかはともかく、徒歩で毎日7~8キロ往復はなかなかダルいですね。
時速5キロとして、片道1.5時間/往復3時間。タイパ最悪な通勤環境と言えます。
そんな助光が何を思いながら家路をたどっていたかは分かりませんが、ともあれ助光は殺害されてしまったのでした。