明智光秀の腹心とされる5名の家臣は、「明智五宿老」と呼ばれ光秀の元で活躍した。【後編】では、本能寺の変から山﨑の戦いにおける五宿老の活動を振り返りたい。
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明智光秀と共に戦死!「本能寺の変」を成した5人の重臣”明智五宿老”とは?【前編】
1582年。明智光秀は京都の本能寺を急襲し、主君である織田信長を討ち取った。このクーデター成功の背景には、光秀を支えた5人の重臣たちの活躍があったとされる。今回は、明智光秀が信頼をおいた5人…
本能寺の変
1582年6月夕刻。光秀は毛利氏と対峙していた羽柴秀吉の援軍のため、1万3000の兵を率いて京都の丹波亀山城を出立。亀山に近い場所で軍議を開き、重臣である五宿老に「打倒・信長」を告げたといわれている。
21日早朝。五宿老は光秀と共に本能寺を襲撃。信長と息子の信忠を横死させた。五宿老の1人である明智光忠は、織田軍の反撃によって負傷したという。
信長の死から山﨑の戦いへ
信長を討った光秀は、京都を中心に自身に呼応する大名を集める地盤固めに奔走した。しかし、予想以上の早さで京都に引き返してきた羽柴秀吉軍と京都の山﨑で対峙することになる(山﨑の戦い)。
五宿老の内、斎藤利三、藤田行政、溝尾茂朝は光秀と共に秀吉軍を迎え撃った。明智秀満は信長亡き安土城の守備につき、明智光忠は本能寺の変で負った傷を知恩寺で癒していたという。
戦は序盤こそ明智軍が奮戦するものの、援軍の到着によって息を吹き返した羽柴軍が奮戦。結果的に明智軍は総崩れとなり、光秀は居城の坂本城を目指して落ち延びることとなる。