すべては汚名を返上するため…幼い弟たちを実母に殺害された戦国武将・戸次統常の覚悟と悲しい定め

拾丸

戦国時代には、戦う覚悟を固めるために弟たちを実母に殺害された悲しい若武者がいました。

その武将は戸次統常(べっき-むねつね)。戸次氏17代当主で大友家に仕えた人物です。

今回は統常が背負った悲しい定めとその最期をご紹介します。

大友家を裏切った父・戸次鎮連

統常の前に父である戸次鎮連(べっき-しげつら)をご紹介します。

鎮連は、雷神と呼ばれた伯父・戸次鑑連(立花道雪)を猶父に持つ人物で、秋月氏との間で起きた休松の戦いでの奮戦や天正6年(1578)には土持親成を討ち取り、土持氏滅亡に大きく貢献するといった活躍をしました。

その甲斐もあり、天正14年(1586)には重臣会議に出席できる資格を持った大友家加判衆に名を連ねます。

しかし、この時の大友家は天正6年の耳川の戦いでの敗戦や大友家を支えた猶父・鑑連が天正13年(1585)11月に亡くなったこともあり、衰退の一途を辿っていました。

その状況下で島津家が侵攻してきたこともあり、鎮連は柴田紹安や戸次玄三らと共に島津家に寝返ります。この判断に統常は父の鎮連を諌めますが、聞き入れられませんでした。

その結果、大友義統によって鎮連は謀殺されてしまいました。

汚名を返上すべく覚悟を決めた母と統常

鎮連の死によって統常は家督を継ぎますが、主家を裏切った一族という汚名がつきまとい続けます。

この汚名を返上すべく天正14年(1586)に鶴賀城が島津軍に包囲された際、援軍に向かうことを自ら志願しました。

その際、統常の母は統常に決死の覚悟をしてもらうために、自身の子どもである統常の幼い弟たちを刺殺。母の覚悟を受け取った統常は、一族に伝わる書物や家宝をすべて焼却し、妻子を安全な場所に移動した上で出陣しました

我が子の背中を見送った統常の母は、その直後に自害しました。

2ページ目 戸次川の戦いに参加と戦死

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