伊達政宗の右腕として有名な片倉小十郎景綱(かたくら-かげつな)には文武両道の息子、片倉重長(かたくら-しげなが)がいました。
また、重長はイケメンだったということで主君と男色の関係だったり、ストーカーにもあっていたりしていました。
今回はそんな重長にまつわるエピソードをいくつか紹介します。
大坂の陣での功績により、ついたあだ名は「鬼の小十郎」
重長は天正12年(1584)に生まれます。慶長5年(1600)の白石城の戦いで初陣を飾り、父と共に戦場を駆け抜けました。
その後の大坂の陣では病で参戦できなかった父の代わりに一軍の将として先鋒を任され、大坂五人衆の1人である後藤又兵衛や薄田兼相(すすきだ-かねすけ)を討ち取ります。
このような戦果にも関わらず、父の景綱からは誉められることはなく、一軍の将なのにも関わらず敵将と刃を交え自身の命を危険にさらしたことに対して、説教を受けました。
それでも重長は世間から「鬼の小十郎」(小十郎の名は当主に代々引き継がれる通称)と呼ばれ、武名を轟かせます。また、真田幸村も重長の武勇を認めていました。