江戸時代に陰湿極まりない”職場内いじめ”が発端で起こった刃傷事件「千代田の刃傷」とは?

拾丸

突然ですが皆さんは、千代田の刃傷という事件をご存知でしょうか?

この事件は江戸時代に職場内いじめが原因で起こり、事件後世間に大きな影響を与えました。

いじめの内容も壮絶で、どのような内容だったか知りたいって方もいるかと思います。

今回は、千代田の刃傷に至った経緯といじめの内容及び事件後のことをご紹介します。

千代田の刃傷の中心人物は松平外記

千代田の刃傷の発端となるいじめを受けていた人物、松平外記(本名;忠寛(ただひろ)は徳川家斉に仕える旗本でした。

性格は剛毅でありながら真面目で几帳面。

その性格ゆえに、当時の旗本で横行していた古参が新人を奴隷のように酷使する扱いに屈することなく、自身が持つ正しさを貫いたと言われています。

また、勤務先である西宮の書院番に着任早々、外記の父・松平忠順の後押しで追鳥狩(将軍の鷹狩)にて野生動物を誘導する勢子の指揮を執る拍子木役に抜擢。

これは本来の慣習を無視した人事であり、これらの要素が相まって古参から外記へのヘイトが大きく溜まっていきました。

ちなみに書院番とは将軍の馬廻衆(親衛隊)のことであり、外記は酒井山城守の組に所属していました。

度重なるいじめに耐え切れず…

文政6年(1823)4月、追鳥狩の予行演習が実施されましたが、あろうことか外記は遅刻してしまいます

この取り返しのつかない失態を犯した責任から自ら拍子木役を辞退し、病気療養を理由に自宅に引きこもりました。

そして、追鳥狩の翌日に職場復帰するも、外記に待っていたのは古参たちからの嫌がらせでした。

内容も外記を罵る悪口や無視、挙句の果てには弁当箱に馬糞を詰めるといった陰湿極まりないもの。

いじめと言っても過言ではない嫌がらせに堪忍袋の尾が切れた外記は、同年4月22日に同じ書院番に所属する本多忠重戸田彦之進沼間左京の3人を殿中にて斬殺。加えて、間部詮芳と神尾五郎三郎にも傷を負わせます。

その場に居合わせた者たちが狼狽し、殿中が大騒ぎとなった中で外記は自害して果てました

3ページ目 事件を隠ぺいするべく動く上司 〜 そして判決は…?

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