【光る君へ】平安時代、藤原道長に仕えた”殺人の達人”源頼親、その驚愕の実態を解説:その3

コロコロさん

前回の記事はこちら↓

【光る君へ】平安時代、藤原道長に仕えた”殺人の達人”源頼親、その驚愕の実態を解説:その2

前回の記事はこちら[insert_post id=232324]頼親が出世する上で欠かせないのが、藤原道長(ふじわらのみちなが)でした。頼親は、武士としての能力だけでなく、道長との関係を武器に…

源頼親の生涯は、大和国における寺社勢力との抗争によって大きく左右されました。彼が大和国の国司として力を振るったものの、興福寺との衝突が彼の地位を揺るがし、最終的には彼の晩年を悲劇的なものにしてしまいます。

この章では、頼親が直面した興福寺との抗争、そして彼の最後の日々を見ていきましょう。

興福寺との対立が激化

頼親は藤原摂関家との関係を維持し、自分の政治基盤を固めながら行動していきます。

その甲斐あってか、頼親は大和守に三度就任。同国での勢力拡大に努め、寺社勢力と争いを繰り返していました。

しかし万寿4(1028)年12月4日、藤原道長がこの世を去りました。最大の庇護者を失ったことで、頼親の人生は暗転していくこととなるのです。

永承4(1049)年12月、85歳となった頼親に事件が起きます。

長らく争っていた興福寺の僧兵が頼親の邸を襲撃。頼親の次男・源頼房が応戦して興福寺の僧兵らを多数殺傷する事態となりました。

興福寺は朝廷に頼親と頼房を2人の処罰を求めて上訴。翌永承5(1050)年、86歳の頼親は土佐国(高知県)へ、頼房は隠岐国への流罪が決まりました。

以降、頼親の消息は知られていません。おそらく土佐国で生涯を終えたものと推測されます。

3ページ目 頼親の後世への影響

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了