耳川の戦いの結末
【前編】では、戦国時代の軍師は軍配者と呼ばれ、彼らは占いや呪術によって合戦の吉凶・スケジュール管理などを行っていたことを解説しました。
【前編】の記事
まるで戦国の世のシャーマン!戦国時代に出陣の日時などを占いで決めていた呪術師「軍配者」とは?【前編】
【後編】では、著名な戦国武将とこうした占い・呪術の関わりについて解説します。
天正6年(1578)、豊後の戦国大名・大友宗麟に仕える軍配者・角隈石宗は、宗麟の命に従って出陣の占いをしたところ、結果がよくないとして出陣を取りやめるように進言しています。
その理由は三つありました。第一に宗麟が厄年の四九歳であること、第二に未申(西南)すなわち日向方面に出陣するのは凶であること、第三に彗星が出現した方角・色・長さからして不吉であるとのことでした。
石宗は、『大友興廃記』に「誠に真俗倚頼、文武の達人なり」と評されるほど文武両道を極めた武士であり、そして軍配者でした。
宗麟の信頼も篤かったとみられますが、それまで大友氏は連戦連勝であったこともあり、どうやら彼は進言を無視したようです。
宗麟自ら総大将となって日向に侵攻したところ、いわゆる耳川の戦いで薩摩の島津義久に敗れてしまったのはご存じの通りです。
島津も占いをしていた
一方、大友氏と戦った薩摩の島津氏にも、川田義朗という軍配者がいました。
義朗もまた、主君の島津義久から出陣の日取りを占うように命じられています。それだけでなく、義朗は戦陣作法にも通じていたようで、勝ち鬨なども執り行っていました。
勝ち鬨というのは勝利をおさめたときなどに行われる作法ですが、天正2年(1584)の沖田の戦いで勝ち鬨を執り行ったのも、義朗だったと伝わっています。作法には細かい決まり事があり、他の人が簡単に行えるものではありませんでした。
また、義朗は加持祈祷にも通じていたようで、『大友興廃記』によると義朗は「神変奇特の事ども多かりき。たとへば、我ちからにはさもなり難き城頭は天火を祈り下し焼却する神変あり」などと記されています。
つまり、城攻めの際、義朗が加持祈祷することで、天から火が降ってきて敵の城を焼いてしまったというのです。
もちろん、それは義朗自身が城への放火を命じていたものかも知れません。
それでも「神変奇特」を起こす義朗への島津家中の信頼は篤く、そうした存在であるがゆえに、義久からも重用されたと考えられます。