生前は「独眼竜」と呼ばれていない
伊達政宗といえば「独眼竜」というキーワードでおなじみで、刀の鍔を使った眼帯姿で描かれることが多いです。
彼については、こんなエピソードがよく知られていますね。
天然痘にかかった幼少期の政宗は、失明して飛び出た片目を恥じて引きこもっていた。その様子をみかねた側近の片倉小十郎は、小刀で政宗の片目を切除し、鍔の眼帯を与えた。これによって政宗は活発さを取り戻し、奥州を席巻する名将に成長。大名から「独眼竜」といわれて畏怖された――。
しかし、この「眼帯をつけた独眼竜」というイメージは、完全に後世の創作によって広まったもので事実ではありません。しかもそれが広まった時期というのは大昔ではなく、かなり最近のことなのです。
まず、政宗が周辺大名から「独眼竜」と呼ばれた、という一般的なイメージについて検証しましょう。政宗にこの呼び名が使われるようになったのは江戸時代の後期からで、政宗が死んで200年近く経ってからのことでした。
独眼竜という名称は、もともとは中国の五代十国時代に活躍した武将である李克用の異名です。彼は片目の視力が悪かったとされています。
文化人・頼山陽が、漢詩の中で政宗を独眼竜・李克用になぞらえたことで、政宗=独眼竜のイメージが世間に広く知られるようになったというのが、現在最も有力な説です。
ただ、それより前から政宗を独眼竜と結びつける考えがあったという説もあるので、ここは断定はできません。
では、伊達政宗のトレードマークである「刀を鍔を使った眼帯」のイメージは、いつ生まれたのでしょうか。