最盛期には200名以上の隊士を抱えた「新撰組(しんせんぐみ)」は、厳格な規則が存在し、隊の掟を破った者は容赦無く粛清された。新撰組の古参隊士であり、勘定方として隊の活動資金の管理を任されていた「河合耆三郎(かわいきさぶろう)」も、粛清の対象とされた一人である。
今回は、河合耆三郎の活動や死について、エピソードや考察を交えてご紹介する。
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新撰組とは
幕末の京都周辺における治安維持、尊王攘夷派志士の粛清を目的として結成された組織。幕臣で組織された幕府の正規組織ではなく、公募の浪士によって構成された非正規の団体であった。
前身は1862年の徳川12代将軍・徳川家茂の上洛に際して募集された浪士組。度重なる内部抗争を経て、63年に新撰組となる。
その後は、組織内の中心派閥であった近藤勇(こんどういさみ)率いる試衛館派(江戸にあった道場の門下生を中心に結成された組織)が実権を掌握した。