紫式部の夫・藤原宣孝はなぜ亡くなったのか?死因はまさかの!藤原行成『権記』によると… 【光る君へ】

長保3年(1001年)4月25日、紫式部の夫である藤原宣孝が病のために卒去しました。

病については諸説あり、当時の流行り病いであろうと考えられています。

そんな中、藤原行成の日記『権記(ごんき)』に意外な記録が残されていました。

果たして宣孝の生命を奪った病とは、いったい何だったのでしょうか。

宣孝の死因はまさかの痔(ぢ)!?

……右衛門権佐宣孝朝臣又申痔病発動之由……

※『権記』長保3年(1001年)2月5日条

【意訳】右衛門権佐である藤原宣孝朝臣が病を申し出てきた。どうやら痔(ぢ)が再発したらしい。

右衛門(うゑもん)とは、内裏の門を守る左右衛門府の一つ。権佐(ごんのすけ)とは定数外(権)の副官(佐)です。

朝臣(あそん)とは朝廷に仕える臣を指し、一般的には位階と官職を受けている者が該当します。

又申(また、もうす)とあるので、以前にも痔の発症(ここでは発動)を申告したことがあるのでしょう。それで再発と意訳しました。

語尾の之由(~のよし)とは「だそうだ」のようなニュアンスであり、行成が直接申告を受けた訳ではなく、部下からそのように報告を受けたのでしょう。

当時の宣孝は長徳4年(998年)ごろに紫式部と結婚、翌長保元年(999年)から同2年(1000年)にかけて多忙な日々を送っていました。

宇佐神宮(うさじんぐう)の奉幣使として出張したり、平野臨時祭の勅使を務めたり、相撲節会(すまいのせちえ)に列席したり……。

長保元年(999年)ごろには紫式部との一人娘である藤原賢子(けんし/かたいこ。大弐三位)も生まれており、ますます励んだのかも知れません。

(ただし紫式部以外に妻が三人、確認できるかぎりで5~6人の子供がいました)

2ページ目 激務の無理が祟ったのか、宣孝は痔を発症

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