「平将門の乱」の二つの局面
二十年以上前の教科書では、935(承平5)年に平将門の乱が起こったとされていますが、近年ではこの考え方を採らなくなりました。
この出来事の実像に関する理解が深まったことで、「乱」が発生した起点の捉え方も変わってきているのです。
まず押さえておきたいポイントは、平将門の乱には承平・天慶の乱という別の表現があることです。
これは承平から天慶年間にかけておこった地方の騒乱を一括りにしたもので、西の藤原純友の乱と東の平将門の乱、その他地方の乱(中部や東北での乱)を大きく捉えて表現しています。
狭義には承平・天慶の乱は藤原純友の乱と平将門の乱の二つを示していると言えるでしょう。
ところで、平将門の乱は「将門記』によって説明されている部分が大きく、それによると将門は朝廷に反旗をひるがえし、国司を襲って新皇を称し、関東独立王国を創設しようとしたとされています。
平将門が新皇と称したのは、もともと平氏は桓武天皇の子孫(将門は桓武天皇の5世にあたる)だったからです。
さて、これを踏まえて、平将門の乱は大きく二つの局面から捉えることができます。
第一の局面は一族の紛争、そして第二の局面が朝廷に対する反抗です。