仲間の裏切りで父と祖父を亡くし、自身も当主の座を剥奪された龍造寺隆信。
幼少期から繰り返される裏切りにより、冷酷で疑り深く人を信じない性格へと変貌した彼はどのような人生を歩んだのでしょうか。
後編となる今回は、人間不信に陥った「龍造寺隆信」波乱の生涯を振り返ります。
【前編】の記事はこちら↓
何度も家臣に裏切られつづけた悲惨な戦国大名「龍造寺隆信」の残念すぎる最期【前編】
龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)は、戦国時代の九州を生きた戦国大名です。無名の生まれでありながら、九州で3本の指に入る巨大勢力を築いています。彼は大名として類稀なる才能を持ち合わせていました…
人生最大のピンチと天才軍師
龍造寺家当主にもどった隆信は、肥前国統一に向けて勢力の拡大を図りました。以前にも増して野心に燃える彼は、かつての主君・少弐氏にまで攻撃を仕掛けて自害させています。
隆信は、龍造寺家の急激な勢力拡大に危機を感じて同盟を組んだ周辺領主たちも容赦なく叩き潰し、1562年には肥前国東部を完全支配。現実的ではないと批判された野望も目前にまで迫っていました。
野望に燃える隆信の前に立ちはだかったのが、豊後国(現在の大分県)で大きな勢力を築く「大友宗麟」です。
1570年、大友宗麟は大軍を率いて肥前国へ侵攻。隆信の居城・佐嘉城も包囲されてしまいます。
絶体絶命のピンチ到来に際し、隆信の家臣・鍋島直茂は奇襲作戦を提案。鍋島直茂は戦国時代の名軍師に名が挙がる戦略家です。
人間不信に陥っていた隆信ですが、鍋島直茂の言葉に従い敵陣への奇襲作戦を決断します。結果的に奇襲作戦が成功したことで、大友軍を怯ませることができました。
数ヶ月間続いた隆信と大友宗麟の対決は、和睦により終結。不利な戦況を持ち堪えた龍造寺陣営にとっては勝利ともいえる結果でした。