関ヶ原に散った戦国武将「石田三成」の忘れ形見。生き長らえた6人の子供たちはどうなった?【後編】

Japaaan編集部

関ヶ原の戦いに敗れ六条河原で斬首された「石田三成」には6人の子供がいた。今回は【前編】に引き続き、関ヶ原以降、三成の子供たちが歩んだ人生をご紹介する。

前回の記事:

関ヶ原に散った戦国武将「石田三成」の忘れ形見。生き長らえた6人の子供たちはどうなった?【前編】

1600年に勃発した「関ヶ原の戦い」。西軍の中心人物であった「石田三成」は敗戦により捕らえられ六条河原で斬首された。石田一族の多くはこの戦いで討死しているが、三成の6人の子供たちは生き長らえている。…

三男 佐吉

6人兄弟の末っ子である「佐吉(佐吉は幼名)」は1594年頃に生まれたと考えられている。元服前のため、石田家が三男に用いた幼名だけが伝わっている。

関ヶ原の戦いの際は、祖父である石田正継と叔父である正澄と共に佐和山城にいたとされる。当初は徳川方との開城交渉によって正澄の命と引き換えに城内の人間の助命が叶うはずであったが、石田方から裏切り者が出たことによって佐和山城は落城。正継と正澄親子は自刃した。

佐吉の命も危ぶまれたが、交渉役の「津田 清幽(つだ きよふか/せいゆう)」の働きによって助命が認められる。その後は、父と縁のあった僧「木食応其(もくじきおうご)」の元で出家。

津田清幽から「清幽」という字をもらい、「深長坊清幽(しんちょうぼうせいゆう)」と名乗った。一説には1670年代まで生きたと伝わっている。

滋賀県彦根市にある「佐和山城跡」Wikipediaより

長女 山田隼人正勝重の正室

名前・生年月日共に不明。父・三成の家臣であった「山田隼人正勝(やまだはやとのかみかつしげ)」と結婚。関ヶ原の戦いでは、夫の勝重、嫡男の宇吉郎と共に佐和山城を脱出した。

その後、勝重は父親「山田上野介」の妹が徳川家康の側室「茶阿局(ちゃあのつぼね)」であった関係から、彼女の息子で家康の六男である「松平忠輝」の家臣となり重臣に名を連ねた。勝重の隠遁後は江戸の地で暮らした。夫婦で余生を送ったという。

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