宣孝の死
大河ドラマ『光る君へ』で話題沸騰中の紫式部。【前編】では、彼女の夫である藤原宣孝との関係がぎくしゃくしてしまったところまでを説明しました。
前編の記事: 紫式部と夫・藤原宣孝の間に訪れる悲劇…。悲しみを乗り越えあの世界的古典が生み出される【前編】
結婚から約3年が過ぎた長保3(1001)年4月25日、藤原宣孝は亡くなります。正確な死因は不明ですが、前年末から京に蔓延していた疫病に罹ったという説があります。
天暦4(950)年生まれだとすると、宣孝はこの年52歳。また紫式部も当時30歳程度と推測され、結婚からほんの数年で彼女は未亡人となり、シングルマザーとして生きていくことになったのです。
宣孝の心が自分から離れていたことを自覚してはいたものの、やはり夫の突然の死は紫式部に大きな悲しみと不安をもたらしました。
歌とその後の回顧
長保3年の暮れには、円融天皇の女御で、一条天皇の母である藤原詮子が崩御しました。
これを受けて、京都の貴族たちも誰もが喪服を着たのですが、夫を亡くした紫式部はすでに喪服を着ていたと言われています。そこで紫式部は、
なにかこの ほどなき袖を ぬらすらむ 霞の衣 なべて着る世に
(取るに足らない私は、どうして夫の死を悲しんで袖を濡らしているのでしょう。国中の方が喪服を着ている時に)
見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつまじき 塩釜の浦
(連れ添った人が煙となった夕べから、〈海藻を焼いて塩を採ることで知られる〉「塩竈の浦」という名に親しみさえ感じるようになりました)
といった歌を詠んでいます。
また当時の心境を、後年にしたためた『紫式部日記』の中でも回想しています。
としごろつれづれにながめ明かし暮らしつつ、花鳥の色をも音をも、春秋に行きかふ空の気しき、月の影、霜・雪を見て、「その時来にけり」とばかり思ひわきつつ、「いかにやいかに」とばかり
(夫を亡くしてからの数年間は、涙に暮れて日夜を過ごし、花の色や鳥の声、春秋の空の景色、月の影、霜や雪を見て、そんな季節になったのだと思いつつも、「これからどうなってしまうのだろう」と思ってばかりいました)