正直、伊周たちより地味だけど…藤原道隆の次男・藤原頼親とはどんな人物だったのか?【光る君へ】

藤原道隆の息子と言えば、藤原道長の政敵であった藤原伊周・藤原隆家兄弟を連想する方は多いのではないでしょうか。

しかし道隆には彼ら以外の息子もおり、それぞれに活躍していました。

今回は道隆の次男・藤原頼親(よりちか)を紹介。果たして彼は、どのような生涯をたどったのでしょうか。

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長徳元年(995年)4月10日、関白であった藤原道隆(みちたか)が病によって世を去りました。そのたった2ヶ月後となる6月11日、その庶長子である藤原道頼(みちより)も後を追うように病で世を去り…

公卿にはなれず

藤原頼親は天禄3年(972年)に誕生しました。母親について詳しいことは分かっておらず、長兄の藤原道頼や弟の伊周たちとも違うようです。

18歳となった永祚元年(989年)に五位として見え、正暦2年(991年)には左近衛少将となりました。

正暦4年(993年)には正五位下へ昇進し、長徳元年(995年)に左近衛中将と任じられます。
伊周たちに比べると明らかに見劣りしているものの、着々と出世していると言えるでしょう。

しかし長徳2年(996年)に伊周たちが謀叛(長徳の変)によって左遷されてしまうと、殿上簡(てんじょうかん。殿上人の名簿)より削除。

つまり除名=代理への出入り禁止を食らってしまったのです。

永らく不遇の歳月を過ごし、寛弘2年(1005年)に内蔵頭(くらのかみ)を兼任。寛弘5年(1008年)には備前守(岡山県東部の国司長官)となりました。

時期は不明ながら正四位下へ昇ったものの、寛弘7年(1010年)11月9日に39歳で卒去します。

永年にわたり左近衛中将を務めたものの、ついに公卿にはなれなかったのでした。

2ページ目 頼親の家族たち

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