平安時代に活躍した女流歌人の一人・清少納言(せい しょうなごん)。
実名を清原諾子(きよはらの なぎこ)とも伝わる彼女が著した随筆『枕草子(まくらのそうし)』は、平安文学における最高傑作の一つと言えるでしょう。
この『枕草子』という題名がなぜつけられたのか、その由来には諸説あるようです。
どの説も決定打に欠け、いまだに定説を見ない『枕草子』題名論争。今回は諸説の中からお気に入りの一説を紹介。あなたも気に入ってくれると嬉しいです。
まだ書き足りない、その思いは
『枕草子』に、こんな一節があります。
物暗(ものぐろ)うなりて、文字も書かれずなりにたり。筆も使ひ果てて、これを書き果てばや。
この草子は、目に見て心に思ふ事を、人やは見むずると思ひて、つれづれなる里居(さとゐ)のほど、書き集めたるに、あいなく人のため便(びん)なき言い過ぐしなどしつべき所々あれば、清う隠したりと思ふを、涙せきあへずこそなりにけれ……。※清少納言『枕草子』能因本 第323段より
【意訳】気づけば暗くなってしまって、文字も書けないほどである。
しかし私はまだ書き足りない。筆を使いつぶしてでも書きつけたい思いがあるのだ。
このメモ書きには、目に見えたすべてのもの、心に浮かんだすべてのことを書きつけている。
よもや誰にも見られまいと思い、しょうもない日常のよしなしごとを書き集めた。
誰かが見れば言葉が過ぎて傷つけてしまうかも知れないから、ここに書いたことはここだけの話にして、表面上は清くソツなく取り繕いたい。
それでも「涙せきあへず(涙をせき止め切れない)」と歌に詠まれるように、やるせない思いがあふれてしまうのだ。
……竹を割ったような性格で、いつも明るく振舞っている清少納言。
ちょっと一言多くて毒舌だけど、裏表が(あまり)ないから憎めない。
そんな彼女がいつも抱え続けている胸中を、ふと垣間見るような一節です。