古来より処刑や晒し首の舞台とされてきた京都の「三条河原」。今回は【前編】に続き、三条河原に散った侍達をご紹介する。
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古くから死罪や晒し首の舞台となっていた処刑場「三条河原」に散った幕末の志士や戦国武将たち【前編】
京都を流れる鴨川に架かる三条大橋。この地域の川岸はかつて「三条河原」と呼ばれ、罪人の処刑や晒し首の舞台となった。三条河原での晒し首の様子今回は、日本の長い歴史の中で三条河原に散った侍…
三条河原で処刑・晒し首となった代表的な人物
石田三成
豊臣家家臣として秀吉に仕えた戦国大名である石田三成。秀吉の死後、対立した徳川家康との間で関ヶ原の戦いが勃発する。善戦した三成率いる西軍であったが、味方の裏切りもあり家康率いる東軍に敗北。三成自身は捕縛された後に六条河原で斬首された。処刑後の首は、見せしめのために三条河原で晒し首となる。
小西行長
豊臣家家臣として秀吉に仕えた肥後国(現在の熊本県)の戦国大名。秀吉の死後に勃発した関ヶ原の戦いでは、石田三成に加担し徳川家康と戦った。敗戦後に捕縛され、三成と共に六条河原で斬首。首は三条河原に晒された。
近藤勇
江戸時代末期の武士。幕末に京都周辺で活発化した尊王攘夷運動を弾圧するために結成された新撰組の局長を努めた。土方歳三や沖田総司と共に京都の治安維持に尽力。
池田屋事件や禁門の変で活躍するも、新政府軍と旧幕府軍との間で起きた戊辰戦争で敗戦を重ね、千葉県の流山に屯集した。近藤たち隊士は会津を目指し進軍予定であったが、近藤は新政府軍によって捕縛。
1868年。板橋に存在した刑場で斬首。首は京都へ運ばれ三条河原で晒し首となった。