知名度が低い戦い
日本史において、幕末の時代はエンターテイメント作品で数え切れないほど物語化されているにもかかわらず、未だによく知られていない事柄が多くあります。
そのうちのひとつが、江戸城が無血開城された後で起きた上野戦争です。
幕末の歴史のことはある程度知っているという人でも、もしかするとこの上野戦争については聞いたことがない、ということがあるのではないでしょうか。
上野戦争は鳥羽伏見の戦いや会津戦争と比較して知名度が低く、教科書でもおまけ程度にしか書かれていません。
しかし最近では、この上野戦争は、戊辰戦争の勝敗を大きく左右する最重要決戦だったと評されるようになってきました。
実際、この戦いで勝利を収めたことで、新政府軍は支配下に治めることになったからです。
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その戦いの詳細をご紹介しましょう。
勝海舟と彰義隊(しょうぎたい)
江戸城が「無血」開城された後も、旧幕府軍による抵抗は続いていました。
関東各地でも、新政府軍と幕府の残党の戦いが起きており、上野戦争はそのひとつです。
この戦争は1868年5月15日に発生しました。
この戦いが起きる前から、江戸の町は既に新政府の支配下にありましたが、問題がひとつありました。新政府軍は、関東各地で蜂起している旧幕府軍を鎮圧しなければならず、その兵力を分散させていたのです。
よって、江戸市中の兵は少なく、治安の悪化が懸念されました。
そこで新政府軍は、仕方なくかつての幕臣である勝海舟の力を借りることにします。そして、新政府から依頼を受けた勝によって、治安維持を任されたのが彰義隊でした。
彰義隊とは何かというと、旧幕府の側近たちによるグループです。徳川慶喜が無実であることを証明するために結成されたもので、本拠地は徳川家の菩提寺・寛永寺に置いていました。
この彰義隊は、最盛期には三千人以上の隊員がいたとされており、旧幕府の最大勢力だったのです。