逃げ出した指揮官…幕末「鳥羽・伏見の戦い」で圧倒的戦力の旧幕府軍が敗北した理由【後編】

歴史 好き太郎

勝敗を分けたのは…

【前編】では、鳥羽伏見の戦いで、実は新政府軍の装備は旧幕府軍に比べて非常に劣っていたことを説明しました。

ナメていた旧幕府軍…幕末の「鳥羽・伏見の戦い」で新政府軍が圧倒的戦力の旧幕府軍に勝利した理由【前編】

旧幕府軍と新政府軍の戦力差は?言わずと知れた鳥羽伏見の戦いは、幕末期の新政府軍と旧幕府軍の戦闘の天王山です。※関連記事:[insert_post id=82905]ところで皆さんは…

では、そんな新政府軍がこの戦いで圧勝したのはなぜだったのでしょう?

答えはシンプルで、兵たちの戦意の高さと指揮官の質に差があったのです。

当時の新政府軍の兵たちは、かなりの士気の高さでした。何せ、ここで負ければ政府の崩壊につながりかねません。

しかしその一方、旧幕府軍は強大な兵力と最新鋭の兵器にすっかり慢心し、戦意も低かったのです。簡単に言えば、新政府軍をナメていたんですね。

逃げ出した指揮官

当時の流れを追ってみましょう。1868年1月3日の午前、旧幕府軍は京都へ進軍。鳥羽街道を守っている薩摩兵に接触しました。

街道の起点にあたる四塚関門を封鎖していた薩摩兵たちと、指揮官の大目付・滝川具挙は直談判に及びます。しかし、もちろん薩摩兵は通過を許しません。

この時、薩摩兵は「京から通行の許可が下りるのを待っていてくれ」と伝えます。

それに従って、その場にとどまった幕府軍。彼らはこの場は話し合いで収めようと考えていたこともあり、すぐに戦闘とはなりませんでした。

そのため、幕府軍は全く戦闘準備を取っていなかったのです。銃には、弾も込められていなかったと言われています。

そうこうしているうちに日没になり、旧幕府軍は前進する動きを見せました。薩摩兵はこの機に乗じて幕府軍を包囲すると、まったく無防備だったところに攻撃を仕掛けたのです。

当然、幕府軍の歩兵たちは大混乱に陥ります。混乱したのが歩兵だけなら良かったのですが、なんと指揮官の滝川は馬で逃げ出してしまいました。発砲に驚いた馬が後方へ退いたのですが、彼はそのまま前線に戻らなかったのです。

実はこの時、鳥羽街道を進む諸部隊の本来の総指揮官だった陸軍奉行・竹中重固は、京街道で伏見に向かっているところでした。彼もまた、部隊を捨てて遁走してしまいます。

つまり鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍はほとんど不意打ちの形で攻撃を受けた上に、指揮官を欠いた状態だったのです。

2ページ目 滝川具挙の末路

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